牧師より of 湘南のぞみキリスト教会

今月のお知らせより

毎月のお知らせに掲載しております、牧師からのメッセージです。
タイトルをクリックしてお読みください。

Doticon_grn_NEW.png内側にあるものを
2012年5月

桜の季節も終わり、少し汗ばむような陽気が心地よい季節になりました。
いかがお過ごしでしょうか。今月も、皆様に教会からのお便りを差し上げることができることを感謝しています。
今月のバイブルメッセージは、「内側にあるものを」と題してお届けさせていただきます。

外側を取り繕うことよりも、大切なことがある。聖書はそう教えています。新約聖書ルカの福音書11章に、イエス様とあるパリサイとのやりとりが記されています。パリサイ人というのは、宗教的なきよめの儀式に特に熱心な人々でした。その彼を、イエス様は次のように厳しく戒められたと言います。「なるほど、あなたがたパリサイ人は、杯や大皿の外側はきよめるが、(あなたがたの)内側は、強奪と邪悪でいっぱいです」。また、こうも言われました。「あなたがたは、公義と神(へ)の愛はなおざりにしています」。あなたがたは、内側にある本質的な欠けをごまかしたまま、表面的な事柄に終始して歩んでいるではないか。そして、それは本末転倒な生き方ではないか。イエス様はそのことを真剣に訴え、問題の根は神をないがしろにして歩んでいるところにあることを鋭く指摘されました。

自分で作り上げた基準ばかりに目を向けて一喜一憂しているので、いつまでたっても満ち足りない思いでいるのではないか。一番大切な神の愛をないがしろにして歩んでいるので、心に本当の喜びと平安がないのではないか。神を無視したまま表面的な部分ばかりを取り繕って生きる生き方は、完全に間違っている。イエス様はそう指摘されたのでした。

これは、あまりにも厳しい叱責にも思えます。実際、このパリサイ人はイエス様に対する激しい怒りを覚え、他の人々と共にあらゆる事柄についてイエス様に敵対するようになりました。ですが、イエス様は、彼のそのような応答を十分に承知しておられた上で、それでも彼を戒められたと言えます。たとえ憎まれ、恨まれ、十字架につけられたとしても、何とかして誤りに気づかせ、その人のたましいを救おうとされた。イエス様のことばの内側、イエス様の心の内側には、いつも、ご自分のいのちさえ厭わないほどの深い愛が込められています。

内側がきよめられるために、大切なのは、聖書のことばに示されている神様の愛にしっかりと耳を傾けることだと聖書は教えています。どうぞ、心を込めて聖書に耳を傾け、その内に溢れている神様の深い愛に気づいて下さいますように。その時、あなたの内側は、神様によって造りかえられていくのです。

あなたのお越しを、心よりお待ちしています。

湘南のぞみキリスト教会牧師 
山中直義



死中に活を求めて
2012年4月

いよいよ桜の季節になりました。いかがお過ごしでしょうか。大船駅から湘南のぞみキリスト教会へと向かう道の途中、坂を上った先に、とても大きく枝振りの良い桜の木が沢山あります。毎年、息をのむほど美しい景色を見せてくれる隠れた名所です。是非、ご覧頂ければと思います。

さて、今月は、「死中に活を求めて」と題して、聖書からメッセージをお届けさせていただきます。


絶体絶命の窮地に立たされたその時、打開の道はどこにあるのでしょうか。

創世記35章に登場するヤコブは、絶体絶命の窮地にありました。まず、家庭崩壊の危機が、彼を苦しめていました。その時のヤコブは、息子たちとの間にどうしようもないほど深い溝を作っており、家庭は崩壊寸前の状態にありました。さらに、ヤコブは民族存亡の危機にも立たされていました。実は、ヤコブの息子たちがしてはならないやり方で、ある町を襲って全てを略奪したことから、一族は周囲の民族に憎まれ、根絶やしにされるかもしれない危機に立たされていたのです。
家庭が崩壊しつつある中で、民族としても根絶やしにされてしまうかもしれない。ヤコブはまさに、絶体絶命の窮地に立たされていました。

ところが、そんなヤコブに、神からのことばがあったと言います。旧約聖書創世記35章1節。「神はヤコブに仰せられた。『立ってベテルに上り、そこに住みなさい。そしてそこに、…神のために祭壇を築きなさい』」。ベテルに向かうということは、その時のヤコブにとって、常識とはまるで逆の行動を意味していました。ベテルは、ヤコブら一族を根絶やしにしようとする民族の真ん中を突き抜けていかなければ、たどり着けない地であったからです。また、そこに祭壇を築き、真の神だけを礼拝するということも、その時のヤコブには考えがたいことであったと言えます。実はヤコブの家の者たちは異国の神々を信頼し、偶像を持っていました。崩壊しそうになっている家族に向けて、偶像に依り頼むことを止めて真の神だけを信じて生きよ、と呼びかけることは、かえって溝を深めることになりかねない行為であったと言えます。

しかし、それでもヤコブは神のことばに従った、と聖書は言います。絶体絶命の窮地の中、死中に活を求めるようにして、彼は神のことばに従ったのでした。するとその時、不思議なことが起こったと言います。真の神だけを信頼して生きようと呼びかけたヤコブに、一族の皆が素直に応答し、手にしていたすべての偶像を捨てたと言うのです。さらに、ベテルに向かって彼らが歩み始めると、神からの恐怖が周囲の民族に下り、彼らはヤコブらのあとを追わなかったと言うのです。

絶体絶命の窮地の中、打開の道はどこにあるのか。それは、神のことばに従うことである、と聖書は言います。神のことばに聞き従うことこそ、絶望を希望に変える道である。聖書はそう教えているのです。

いかがでしょうか。自分の知恵と力に依り頼む生き方に別れを告げ、真の神を信頼して神のことばに従って生きる。そんな幸いな生き方を、あなたもしてみませんか。あなたも是非、教会においでになり、神のことばである聖書のことばに耳を傾けてみて下さい。あなたにも、神様の守りと祝福は約束されているのです。

聖書のことば。

「あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる」。旧約聖書詩篇37篇5節


あなたのお越しを、心よりお待ちしています。

湘南のぞみキリスト教会牧師 
山中直義



人生を変える出会い
2012年3月



まだまだ寒い日が続きますが、いかがお過ごしでしょうか。昨日、被災地支援のために茨城県にある幾つかの教会を訪問させていただきました。その道中、多くの屋根にブルーシートがかけられているのが目に留まり、復興途上の苦しみの中にある方々が多くおられることを改めて思わされたことでした。東日本大震災発生から一年が経とうとする今、神様が与えて下さる希望に改めて心を留めつつ、神様の恵みを少しでもお届けさせて頂きたいと願わされています。

今月は、「人生を変える出会い」と題して、聖書からメッセージをお届けさせていただきます。

 旧約聖書創世記31章に、人生を変えた出会いのエピソードが描かれています。 主人公はヤコブと言い、その名前には「かかとにしがみつく」という意味がありました。そして、彼はまさに、そんな生き方をしてきた人物でした。自分の考えと自分の力を過信し、時に人を欺き、時に人を傷つけ、神も人も押しのけて生きてきた。それがヤコブでした。
 そんなヤコブが、ある夜、とうとうすべてを失い、自分が犯した罪のゆえに明日には殺されなければならないというところまで追い詰められてしまいます。絶望の闇に一人残されて苦悩するヤコブ。そんな彼に、不思議な出会いがあったと聖書は言います。
 神様が彼に現れ、夜が明けるまで彼と格闘してくださったと言うのです。ここでの「格闘した」という言葉は、「ちりにまみれた」という言葉です。神様がちりにまみえるようにしてまでヤコブと徹底的に向き合おうとしてくださった。そうして、ヤコブの魂を取り扱い、ヤコブの生き方そのものを変えようとしてくださった。
 聖書は、何とかして人の魂を救おうとする神様の深い愛と熱心を描き出しています。そして、そのようにして神様と向き合ったヤコブは、真に変えられなければならないのは表面的な状況などではなく自分の魂であり、神様に対する自分の生き方そのものなのだということにようやく気づかされたのでした。
 すると、そんな彼に神様はこう告げられたと聖書は言います。「あなたの名は、もうヤコブとは呼ばれない。イスラエルだ」。「イスラエル」という名前は、「神が戦ってくださる」「神が治めてくださる」という意味です。神様と本気で向き合うという体験をし、神様の愛と憐れみを体験したヤコブは、神も人も押しのけて生きるような生き方ではなく、神の守りを信頼し、神にしがみついて生きる者へと変えられたのでした。  

人生を変える出会い。それは、神との出会いであると聖書は言います。そして、その出会いはあなたにも、確かに用意されていると聖書は約束しています。どうぞ、教会へお越しくださり、神様の豊かな恵みを体験してくださいますように。

あなたのお越しを、心よりお待ちしています。


湘南のぞみキリスト教会牧師 
山中直義

救い
2012年2月


 厳しい寒さが続きます。いかがお過ごしでしょうか。厳しい寒さを経て温かな春が来る。そんな当たり前に思える事柄の中にも、神様からの慰めや励ましがあるように思います。神様を信頼しつつ、希望を持って日々の歩みを続けさせて頂きたいと思わされます。
さて、今月は、「救い」と題して、聖書からメッセージをお届けさせていただきます。

 救いとは何でしょうか。イエス・キリストはある時、次のたとえを話されました。
「ある人が、エルサレムからエリコへ下る道で、強盗に襲われた。強盗どもは、その人の着物をはぎとり、なぐりつけ、半殺しにして逃げて行った。たまたま、祭司がひとり、その道を下って来たが、彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。同じようにレビ人も、その場所に来て彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。ところが、あるサマリヤ人が、旅の途中、そこに来合わせ、彼を見てかわいそうに思い、近寄って傷にオリーブ油とぶどう酒を注いで、ほうたいをし、自分の家畜に乗せて宿屋に連れて行き、介抱してやった。次の日、彼はデナリ二つを取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『介抱してあげてください。もっと費用がかかったら、私が帰りに払います。』」。(ルカの福音書10章30-35節)
 傷つき、動くことも出来ずただ死を待つ男性の姿に、私たち一人ひとりのたましいの状態が重ね合わされているように思います。祭司たちが彼の側を通り過ぎて行きましたが、無理もない話だと思います。関わっていると自分まで強盗に襲われかねない、また、助けるためにはとてつもない自己犠牲が強いられる状況でした。しかし、あるサマリヤ人が、そのとてつもない自己犠牲を払ったと言います。彼は、倒れて死を待つその男性を見て「かわいそうに思」ったと言います。この「かわいそうに思う」という言葉は、腹の底からわき上がってくるどうしようもない感情を指す言葉です。傷つき滅び行く人に対する無条件の深く熱い思い。それが、その人を救うことになりました。そして、この深く熱い、どうしようもない思いこそ、イエス・キリストが私たちに向けて持っていてくださる思いだと聖書は教えています。イエス様は私たちのたましいを見つめ、愛し、何とかして救おうとご自分のいのちを身代わりとして十字架でお与え下さったと聖書は言うのです。
 救いとは、私たち人間が自力で勝ち取るものではありません。私たちを愛し、何とかして救おうと懸命に手を差し伸べていて下さる神の御子イエス・キリストの手をしっかりと握りしめる。その時に与えられるものなのです。そして、あなたの前にも、イエス様の手は差し伸べられています。「私をお救いください」。そう祈りながら、あなたも、イエス様の手を握りしめてくださいますように。

湘南のぞみキリスト教会牧師 
山中直義


苦しむ時 そこにある助け
2012年1月


 新年のご挨拶を申し上げます。昨年は、東日本大震災をはじめ、様々なことがありました。悲しみと苦しみと向き合わされている今こそ、闇の中に輝く光をみつめつつ、新しい年を歩ませて頂きたく願います。皆様の上に神様からの祝福をお祈りいたします。本年も、どうぞよろしくお願いいたします。
 今月は、「苦しむ時 そこにある助け」と題して、17年前の阪神淡路大震災を通して思わされたことを書かせて頂きます。

 今から17年前、1995年1月17日、阪神淡路大震災が起こりました。6,300人以上の死者を出したあの震災は、多くの人々の生活を一変させ、すべてのものを揺り動かしました。その日、私(著者)もまた、被災地で大きな揺れを体験し、かつてない災害と混乱の中を過ごすことになりました。

 地震の直後、外に出た私はいつもとは全く異なる風景を目にします。ようやく夜が明けかかる中、すべての電気が止まって不思議な静けさが覆う町を、多くの人々が不安と動揺を抱えた表情で歩き回っていました。当時一人暮らしをしていた私は、やはり被災地にあった実家の両親が心配になり、オートバイを走らせました。信号の止まった道、崩れ落ちた家やビル、行き交うパトカーや消防車のサイレン。目の前の現実がまるで夢の中の出来事のようで、不思議な感覚を覚えました。辿り着いた実家は、建物こそ無事でしたが、家の中はまるでミキサーにでもかけられたように散乱していました。土足のままでガラスや食器の上を歩きながら声をかけたのですが、返事はありません。もしかすると大けがをして運ばれたか、あるいはもっと大変なことが起こったかも知れない。それまでに感じたことのない不安を覚えたことでした。ですが、離れに行くと、祖母と父がそこにいました。祖母は大腿骨を骨折し、父も疲れてはいましたが、二人とも何とか無事でした。母のことを訪ねると、母は私の安否を心配して私が住んでいたアパートに車で向かってくれたとのことでした。後で聞かされたことですが、多くの家屋が無残に倒壊しているのを見ながら車を走らせていたとき、母は私がもう死んでしまったかもしれないと思ったそうです。

 昨日までそこにあった生活が一変し、それまで何気なく捉えていたすべてのものが揺り動かされる。そうして、体験したことのない不安と混乱の中に放り出される。そんな体験の始まりでした。そして、あらゆるものを揺り動かしたあの震災は、私のたましいも揺り動かすことになりました。震災直後からの3ヶ月間、私は避難所でボランティアの働きをさせていただくことになりました。私が最初にさせて頂いた仕事は、遺体を運ぶというものでした。硬く、冷たくなった遺体を素手で運びながら、それまで漠然と考えていた「死」というものが、私に迫って来ました。私もまた、明日さえ分からない死ぬべき存在である。その現実に、初めて感じる恐れと不安を覚えさせられました。また、家と財産のすべてを失われた男性と真夜中に焚き火にあたりながら、私の内側には真の希望がないことを強く思わされました。目に見えるものが失われる時、揺り動かされ、打ちのめされ、希望を失って途方に暮れる。それが私という人間の現実であることを知りました。さらに、3ヶ月間のボランティア活動を通して何よりも教えられたことは、自分の内側に巣食う偽善、愛のなさでした。傷つき悲しむ方々を愛して仕えようと思っても、どうしてもそれができない。良いことをしようとすればするほど、それとはかけ離れた自分という現実を知らされる。自分の内側にある惨めさ、汚なさを嫌と言うほど思い知らされました。

そうして、あの震災を通して私のたましいは打ちのめされ、立ち上がることができないほどに弱っていったのでした。しかし、その経験を通して、私の目は、揺り動かされることのないものへと向けられて行きました。明日さえ分からない死にゆく者だからこそ、永遠のいのちを与えるイエス・キリストの手を握りしめるように。何も持たない弱く小さな者だからこそ、真の希望と喜びを与えてくださるイエス・キリストにすべてを委ねて生きるように。どうしようもなく惨めで愛のない者だからこそ、そんな者を愛していのちまで与えてくださったお方、そして、死を打ち破ってよみがえり、今も生きて導き続けてくださるイエス・キリストと共に生きるように。神様は私にそのことを教え、励まし、再び立たせてくださったのでした。

すべてのものは揺り動かされ、過ぎ去って行く。しかし、イエス・キリストだけは何があっても変わることがなく、愛を貫き、依り頼む者の魂を必ず守り導いてくださる。聖書の約束が真実であることを、あの震災を通して深く体験させられたことでした。

 イエス・キリストを避けどころとする。そんな生き方があることを、今の私は心から喜んでいます。そして、この生き方は、あなたにも差し出されています。どうか、教会にお越しくださり、共に神様の恵みを味わって下さいますように。

聖書のことば
「神はわれらの避け所、また力。苦しむとき、そこにある助け。
それゆえ、われらは恐れない。たとい、地は変わり山々が海のまなかに移ろうとも。

たとい、その水が立ち騒ぎ、あわだっても、その水かさが増して山々が揺れ動いても」。 旧約聖書 詩篇 46 篇 1-3 節


湘南のぞみキリスト教会牧師 
山中直義