ショートメッセージ of 湘南のぞみキリスト教会

Real_col_Memo.pngショートメッセージについて


 このページは、「キリスト教ははじめて」という方にも読んでいただけるショートメッセージを掲載しています。上から順番に最新のメッセージが載せてあります。タイトルをクリックしてお読み下さい。

Doticon_grn_NEW.png挫折という恵み
(マルコの福音書14章26-31節)

「麦踏み」という農作業があります。麦がしっかりと根を張って力強く育つように、農夫は霜の張る早春にその芽を何度も踏みつけると言います。私たち人間にも、挫折の経験が大切であることを思わされます。あなたは、必要な挫折を経験しておられるでしょうか。

 一体どんなことで挫折を経験するべきか。聖書は、神様を信じることにおいて挫折を経験することの大切さを教えています。

 新約聖書マルコの福音書十四章二十七節にこんな言葉があります。
イエスは、弟子たちに言われた。「あなたがたはみな、つまずきます『わたしが羊飼いを打つ。すると、羊は散り散りになる』と書いてありますから」。

「あなたがたはみな、つまずきます」つまり「挫折します」。イエス様のこの言葉を聞いたとき、弟子の一人であったペテロはイエス様の言葉を否定してこう言いました。「たとい全部の者がつまずいても、私はつまずきません。…たとい、ごいっしょに死ななければならないとしても、私は、あなたを知らないなどとは決して申しません」。他の弟子たちも同じように言ったと言います。イエス様への熱心、イエス様への愛の故に、彼らは本気でそう思ったのでしょう。しかし、この時の彼らは、イエス様のことば、神様のことばを否定してまでも自分たちの熱心を主張していました。丁度、羊飼いの声を聞こうとしなくなった頑なな羊のようであったと言えます。そして、その頑なさの故に、彼らは挫折を味わう必要があったのでした。

 神様を信じるという時、神様を脇に置いた独りよがりな信仰、神様のことばを無視した信仰であってはならない、ということを教えられます。羊が羊飼いの声を聞かなくては生きていけないように、私たちも神様の語りかけ、聖書のことばに良く耳を傾けなければ、間違った見当違いの歩みをしてしまうのです。

 神様のことばという土台にしっかりと根を張って力強く生きていく。そのことを学ばせるために、神様は時に私たちに挫折という恵みを与えて下さいます。

 挫折を経験するとき、どうぞ神様の語りかけ、聖書のことばに静かに耳を傾けてください。その時、挫折は恵みとなるのです。

聖書のことば
「あなたがもし全能者に立ち返るなら、あなたは再び立ち直る」。
    旧約聖書 ヨブ記二十二章二十三節


Doticon_grn_NEW.png受け取りなさい
(マルコの福音書14章22-25節)


もし誰かから何かを受け取ることができるとすれば、あなたは、誰から、何を受け取ることを願われるでしょうか。

 聖書は、イエス・キリストから、罪の赦しと深い愛を受け取り続けることが何よりも大切であると教えています。 

 マルコの福音書一四章には、イエス様が十字架にかかられる前夜の事、最後の晩餐の席での出来事が描かれています。二二から二四節をお読みいたします。

 それから、みなが食事をしているとき、イエスはパンを取り、祝福して後、これを裂き、彼らに与えて言われた。「取りなさい。これはわたしのからだです。」また、杯を取り、感謝をささげて後、彼らに与えられた。彼らはみなその杯から飲んだ。イエスは彼らに言われた。「これはわたしの契約の血です。多くの人のために流されるものです。」

イエス様は、この翌日にご自分が十字架にかかられることを知っておられました。そしてその上で、十字架の上で裂かれるご自分の肉とそこで流されるご自分の血を、当時の人々が毎日口にしていたパンとぶどう液に重ね合わされました。そして弟子達に、ご自分の十字架によって為し遂げられる罪の赦しを日々受け取り続けるようにと語りかけられたのでした。

 私たちは、神様の深い愛から目を離し、神様の心を悲しませてしまうという罪を日々犯してしまう者です。そういう意味では、私たちの誰一人として、罪の赦しを受け取る資格など持っていないと言えます。しかし、だからこそ、イエス様は私たちに、日々罪の赦しを差し出していてくださるのだと聖書は言うのです。肉を裂き、血を流し、いのちを与え尽くしてまでも私たちに罪の赦しを与えようとしていてくださるイエス様。そのイエス様が私たちに「受け取りなさい」と差し出していて下さる恵みを、大切に受け取りたいと思わされます。

 あなたにも、イエス・キリストによる罪の赦しが差し出されています。どうか、それを受け取り、罪赦されて生きる喜びを味わってください。 

聖書のことば
「取りなさい。これはわたしのからだ…わたしの契約の血です」。

新約聖書マルコの福音書14章22、24節

なんと哀れな (マルコの福音書14章17-21節)


本当に悲しむべきこと、このことだけは自分の身に起こって欲しくない、とあなたが思っておられることは何でしょうか。

 聖書は、「救い主イエス・キリストを拒絶してしまうこと」こそが、本当に悲しむべきことだと教えています。
 新約聖書マルコの福音書一四章には、イエス・キリストを裏切ろうとしていたイスカリオテ・ユダの姿が描かれています。わずかな金と引き替えにイエス様を手放そうとしていたユダ。そのユダの心の内をよくご存じであったイエス様は、彼がその考えを悔い改めてもう一度イエス様と共に生きることを願い、次のように語られました。二十一節のことばです「確かに、人の子は、自分について書いてあるとおりに、去って行きます。しかし、人の子を裏切るような人間はわざわいです。そういう人は生まれなかったほうがよかったのです」
 「人の子を裏切る」、すなわち、イエス・キリストを拒絶する人はわざわいであるとイエス様は言われました。この「わざわいです」と訳されている言葉は、心の奥にある深い悲しみを表す感嘆詞で、「なんと哀れなことか」とも訳すことができます。神が私たちに与えて下さった救い主を拒絶してしまう。そんな人のことを、イエス様は心の底から悲しみ、深く思いやっていてくださるのです。「そういう人は生まれなかったほうがよかったのです」とさえ言われていますが、神に造られた者である私たちが、神の愛と赦しを拒絶して神から永遠に離れてしまうなら、それはやはり、それほどに悲劇的で哀れなことはないかと思わされます。

 本当に悲しむべきこと。それは、実は病でも貧しさでもなく、救い主イエス・キリストを拒絶してしまうことであると聖書は言います。そして、イエス様を拒絶してしまうそんな私たちを救うために、イエス・キリストは十字架につき、私たちの罪を赦し、復活して下さったと聖書は言うのです。私たちがこの救いを受け入れ、この救い主と共に歩むように、イエス・キリストは今も手をさしのべていて下さるのです。

 なんと哀れな、と自分を嘆かざるを得ない人が、なんと幸いなことか、と神を讃え、感謝と喜びに満ちて生きることが出来る。それが、聖書が語っている福音です。あなたも、イエス・キリストを信じ、この救い主と共に、何と幸いなことよと喜び歌う人生を歩んでくださいますように。

聖書のことば
「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた」。
新約聖書 テモテへの手紙第一 1章15節


整えられた客間 (マルコの福音書14章12-16節)


ゆったりとした交わりは、私たちを豊かにしてくれます。あなたは、大切な人とのゆったりとした交わりを持っておられるでしょうか。神様とゆったりとした交わりを持つ。その大切さを聖書は教えています。

 新約聖書マルコの福音書十四章には、整えられた客間というモチーフが描かれています。イエス様の弟子達が、過越の食事をとる場所を探していました。過越の食事とは、神の救いを思い巡らし、神の救いを待ち望むために、ユダヤ人が大切にしていた年に一度の特別な食事でした。その弟子達に対して、イエス様はこう言われました。

十三節から十五節をお読みします。「都に入りなさい。そうすれば、水がめを運んでいる男に会うから、その人について行きなさい。そして、その人が入って行く家の主人に、『弟子たちといっしょに過越の食事をする、わたしの客間はどこか、と先生が言っておられる』と言いなさい。するとその主人が自分で、席が整って用意のできた二階の広間を見せてくれます。そこでわたしたちのために用意をしなさい」
 イエス様のこのことばに弟子達が従ってみると、不思議なことに、確かに整えられた客間が彼らのために用意されていたと聖書は言います。この「客間」と訳されている言葉には、「ゆるめる」という意味があります。荷物を下ろしてゆったりとした交わりを持つ。私たちも、神様との交わりのためにそんな整えられた心を用意したいですよね。私たちの内側には、罪の重荷、思い煩いの重荷がありますから、神様とのゆったりとした交わりを持つことが難しいと感じるかもしれません。しかし、イエス様は私たちのために十字架にかかってくださり、私たちの罪の重荷を取り除いてくださった。また、神様がどれほど深く私たちを愛していてくださるのかを示してくださり、私たちが何も思い煩わすに神様を信頼してよいということを示してくださったと聖書は言います。

 神様は、あなたとのゆったりとした交わりを慕い求めておられます。そして、神様の側では、あなたのための客間はすでに整えられているのです。

 あなたも、神様とのゆったりとした交わりを持ってみませんか。是非、ゆっくりと聖書を読み、心を楽にして教会にお越し下さい。神様があなたを大切に迎え入れてくださいます。

聖書のことば
「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます」。
  新約聖書 マタイの福音書11章28節



手放さないように (マルコの福音書14章10-11節)



 私たちは、本当に大切なもの手放してしまう、ということがあるのではないでしょうか。あなたは、本当に大切なものをしっかりと握りしめておられるでしょうか。手放してはならない本当に大切なもの。それは、あなたへの神様の愛であると聖書は教えています。

 新約聖書マルコの福音書十四章には、イエス・キリストを手放してしまったイスカリオテのユダの姿が描かれています。
十、十一節をお読みします「ところで、イスカリオテ・ユダは、十二弟子のひとりであるが、イエスを売ろうとして祭司長たちのところへ出向いて行った。彼らはこれを聞いて喜んで、金をやろうと約束した。そこでユダは、どうしたら、うまいぐあいにイエスを引き渡せるかと、ねらっていた」
 彼は十二弟子の一人、イエス様の愛と恵みを溢れるほどに受け、いつもその言葉に耳を傾けることが許されていた人の一人でした。しかし、ある時、わずかな金と引き替えにイエス様を手放そうとしてしまいます。聖書の他の箇所によれば、彼はイエス様から預かっていた金入れからいつも金を盗んでいたと言います。金銭への執着、罪を悔い改めようとしないプライド、あるいは、自分の思い通りにすべてをコントロールしたいと思う思いが、ユダに本当に大切なものを手放させてしまったことを思われます。私たちも、せっかく差し出されている神様の愛や恵み、聖書からの語りかけを、時間やお金、自分の思い通りに生きたいという思いを優先することで、手放してしまってはいないでしょうか。そんなユダや私たち、神様の愛を簡単に手放そうとしてしまう私たちを、イエス様は何とかしてつなぎ止めようと願っていてくださる。そして、そのために、十字架にまでかかってくださったと聖書は言います。

 手放してはならない本当に大切なもの。それはあなたへの神様の愛、たとえ十字架につけられようともあなたを手放そうとはされなかったイエス・キリストの愛であると聖書は言います。
 あなたは、本当に大切なものを手放そうとはしておられないでしょうか。あなたを愛する神様の愛をしっかりと握りしめ、あなたへの神様の語りかけに、いつもしっかりと留まり続けていただきたいと思うのです。

聖書のことば

「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました」。
  新約聖書 ヘブル人への手紙 12章2節


石膏のつぼ (マルコの福音書14章3-9節)


 私たちは、自分の人生を何のために、誰のために使おうとしているでしょうか。新約聖書マルコの福音書十四章に一人の女性が登場します。
三節をお読みいたします。「イエスが…食卓に着いておられると、ひとりの女が、純粋で、非常に高価なナルド油の入った石膏のつぼを持って来て、そのつぼを割り、イエスの頭に注いだ」石膏のつぼに入ったその香油は、当時の平均年収に相当する高価なものであったと言います。当時の石膏のつぼは、継ぎ目がなく密閉されたもので、一度割るとそれで終わり、あとは中にあるものを注ぎ切るしかないというものでした。ですから、石膏のつぼを割ったこの女性の行為は、大変大胆で衝撃的な行為であったと言えます。

 私は、石膏のつぼを割るというこの行為に、私たちの人生の大切な決断が重ねられるように思います。一度決断すればもう後戻りはできない。あとはその決断に従って人生を捧げるのみ。そんな決断が、私たちの人生にもあるのではないかと思うのです。

 あの女性は、イエス様のために石膏のつぼを割りました。自分のためでもなく、人々のためでもなく、イエス様のために大切な香油を使いたい。そう願ったからです。そして、彼女が注いだその香油は、イエス様の埋葬の準備、イエス様が十字架にかかられるための大切な備えとなったと聖書は言います。

 大切な香油、大切な人生を、自分自身のために使うこともできます。しかし、その生き方は、刹那に消え去る香油の香りのように、むなしく儚いものではないでしょうか。また、それを人々のために使うこともできます。しかし、大切な香油、大切な人生を投げ打ってどれほどパンを分け与えたとしても、それで人の本当の必要、魂の飢え渇きを満たすことはできません。しかし、大切な香油、大切な人生をイエス様に捧げるなら、それは永遠に消えないかぐわしい香りとなり、人の本当の必要を満たす魂の救いのために豊かに用いられていくと聖書は言います。

 何のために、誰のために人生を使おうとするのか。石膏のつぼを割る、そんな決断が、私たち一人ひとりにも委ねられているように思います。イエス・キリストは、私たちを救うために人となり、十字架にかかってくださいました。私たちのために命を注ぎきるために、まさに、後戻りのできない決断をしてくださったのです。あなたは、誰のために生きる決断をされるでしょうか。イエス様のために石膏のつぼを割る、そんな良き決断をしてくださいますように。

聖書のことば

「なくなる食物のためではなく、いつまでも保ち、永遠のいのちに至る食物のために働きなさい」。
  新約聖書ヨハネの福音書 6章27節




目を覚ましていなさい (マルコの福音書13章28-37節)



 人生には、やがて終わりが訪れます。あなたは、いつ終わりが来ても良いという生き方をしておられるでしょうか。確かな終わりを迎えるために、聖書は、「目を覚ましていなさい」と教えています。

 新約聖書マルコの福音書13章の後半には、確かで喜びに満ちた終わりを迎えるための秘訣が教えられています。
33節から、イエス・キリストによるたとえが語られています。「気をつけなさい。目をさまし、注意していなさい。その定めの時がいつだか、あなたがたは知らないからです。それはちょうど、旅に立つ人が、出がけに、しもべたちにはそれぞれ仕事を割り当てて責任を持たせ、門番には目をさましているように言いつけるようなものです。だから、目をさましていなさい。家の主人がいつ帰って来るか、夕方か、夜中か、鶏の鳴くころか、明け方か、わからないからです。主人が不意に帰って来たとき眠っているのを見られないようにしなさい」。

旅に出ていつ帰ってくるのか分からない主人の帰りのように、終わりの時がいつ訪れるのか、誰にも分かりません。だからこそ、大切なのは今目の前にある一日一日を目を覚まして誠実に生きることだと聖書は教えています。主人が帰ってくるその直前だけ、終わりを迎えるその直前だけ誠実に生きるということではありません。今日という一日一日を、与えられた使命に誠実に過ごす。それこそが本当に確かな生き方、一日一日を平安と喜びの内に生き、確かで喜びに満ちた終わりを迎える生き方であるとイエス・キリストは教えています。

それでは、私たちは何について目を覚ましているべきなのでしょうか。このたとえの主人のいいつけに相当するもの、それは、神様のことば、聖書のことばだと聖書は教えています。留守中の主人のいいつけを誠実に守って生きる良いしもべのように、私たちは、神様のことば、聖書のことばに対して誠実に生きることが大切だと言うのです。聖書のことばによく耳を傾け、それに聞き従って生きるなら、私たちは日々深い喜びと平安を体験します。そして、その延長に幸いな終わりを迎えることになると聖書は言うのです。
 人生にはやがて終わりが訪れます。確かで喜びに満ちた終わりを迎えるために、あなたは、今日という一日一日を相応しく過ごしておられるでしょうか。どうか、神様のことば、聖書のことばに耳を傾け、目を覚まして誠実にお過ごしください。 


 聖書のことば

「だから、目をさましていなさい」。家の主人がいつ帰って来るか、
夕方か、夜中か、鶏の鳴くころか、明け方か、わからないからです」。
  新約聖書マルコの福音書 13章35節



産みの苦しみ (マルコの福音書13章1-13節)


私たちの人生には様々な苦しみがあります。なぜそれらの苦しみがあるのでしょうか。聖書は、それは「産みの苦しみ」なのだと教えています。

 新約聖書マルコの福音書13章で、イエス・キリストは世の終わりについて語っておられます。目に見える全てのものが滅び去る時が必ず来る。そして、その世の終わりの前に、人々は必ず多くの苦しみ、戦争や地震や飢餓などの苦しみを体験することになる。イエス様は、はっきりそう語られました。世の終わりの前にあると言われている苦しみは勿論、私たちが日々体験する苦しみも、決して喜ばしいものではありません。私たちはそれを何とかして避けようとするでしょう。しかし、実はそれらの苦しみは大切な「産みの苦しみ」なのだとイエス様は言われます。私たちは出来るだけ苦しみのない人生を願います。しかし実際には、苦しみを通して大切なことに気付かされ、深い喜びがある生き方をするようになっていくのではないでしょうか。様々な苦しみがまさに「産みの苦しみ」となって、本当に良いことを生み出して行くのです。

それでは、イエス様が語られた本当に良いこと、苦しみを通して生み出されるべき深い喜びとは一体何なのでしょうか。マルコの福音書13章 13節でイエス様はこう言われました。「しかし、最後まで耐え忍ぶ人は救われます」。「救われる」、すなわち、神様と共に永遠に喜んで生きるようになる。それこそが、苦しみによって生み出されるべき真に素晴らしいものだと言うのです。目に見えるすべてのものはやがて滅び去ります。愛や友情を誓った人々もあなたを見捨てて去って行くことがあるでしょう。しかし、すべてのものが滅び去っても、すべての人があなたを捨て去っても、あなたを愛し、あなたを決して離さないと言って下さるお方がいます。その神と共に生きる者となる。それこそが、苦しみを通して生み出されるべき本当の喜び、言いようもない深い喜びなのだと聖書は教えています。

 私たちの人生には様々な苦しみがあります。それらを無駄にせず、「産みの苦しみ」とすべきではないでしょうか。あなたは今、言いようもない苦しみを体験しておられるかもしれません。どうか、その苦しみの中で神様に目を留め、その苦しみを「生みの苦しみ」としてください。言いようもない喜び、神と共に生きる喜びを、あなたも見いだしてくださいますように。


 聖書のことば
「苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。
私はそれであなたのおきてを学びました」。
       旧約聖書 119篇71節

何をしてほしいのですか

 日々の小さな事柄から人生の重大事に至るまで、神様に祈ること、神様にしてほしいことをを訴えることは尊いことだと言えます。その際、一つ注意しておくべきことがあります。それは、神様への願いと同時に、否それ以上に、神様の願い、神様は私に何をしてほしいのかということを心に留めることです。

 ある時、イエス・キリストの元に二人の弟子が願い事を訴えるためにやって来ました。その時、イエス様は彼らにこう言われました。マルコの福音書十章三十六節のことばです。「イエスは彼らに言われた。『何をしてほしいのですか』。自分が願い求めている事柄についてもう一度よく考えてみるように。イエス様はそのように問いかけておられます。

 「何をしてほしいのですか」。神様にそのように問われるならば、あなたはどのようにお答えになるでしょうか。そして、その求めが実際には何を意味しているのか、しっかりと理解しておられるでしょうか。苦しみ悲しみがなるべくないように、笑顔で健康で過ごせるように、私たちの多くは願い求めるのではないかと思います。あるいは、少しでも人の役に立ちたい、神様のお役に立ちたいと願い求める方もあるかもしれません。しかし、単に健康で笑顔でいることよりも、単に人や神様のために沢山のことをするよりも、はるかに大切で尊い事柄があると聖書は教えています。私たちが願い求めていることよりもさらにずっと大切で私たちに必要なこと。それはどのようにすれば知ることが出来るのでしょうか。それは、聖書のことば、私たちに対する神様の願いによく耳を傾けることだと聖書は教えています。そして、実にそのことこそ、聖書のことばに耳を傾けることこそが、神様が私たちにしてほしいことなのだと聖書は言うのです。

 「神様に何をしてほしいのか」、そのことを丁寧に考えることは自分の人生を丁寧に考える良い機会となります。しかし、「神様は私に何をしてほしいのか」、そのことに丁寧に心を留めることは、さらに豊かな実りをもたらします。神様の願い。それは私たちが聖書に記されている神様の教えに耳を傾け、神様が願っていて下さる本当の幸いをしっかりと受け止めていくことだと言えます。あなたも、人の思いや願いを遙かに超えた神様の豊かな恵みを味わってみてはいかがでしょうか。

聖書のことば
「主よ。あなたの恵みと、あなたの救いとが、みことばのとおりに、私にもたらされますように。」詩篇119篇41節

迷子(まいご)


 新約聖書ヤコブの手紙5章19,20節にこんなことばがあります。
「 私の兄弟たち。あなたがたのうちに、真理から迷い出た者がいて、だれかがその人を連れ戻すようなことがあれば、罪人を迷いの道から引き戻す者は、罪人のたましいを死から救い出し、また、多くの罪をおおうのだということを、あなたがたは知っていなさい」。
 どんな人でも、真理から迷い出ることがある。歩むべき道から外れ、神様のもとから離れてしまうことがある。聖書はそう教えています。私たちは皆、離れたくて離れるのではないと思います。できれば最善の道を歩み、神様が与えようとしていて下さる幸いを味わいながら生きたい。しかし、それでも時に、迷い出ることがあります。私たちの周りに、そして私たちの内側に、私たちを惑わし誘うものが多くあるからです。変わることのない真理よりも世の常識や風潮に左右されることがあります。愛と配慮に満ちた神様の思い、神様の教えよりも、自分勝手な考え、自分の狭い思いに固執してしまうことがあります。私たちは、真理から、神様のもとからいつのまにか迷い出てしまうことがあるのです。さらに、私たちは自分が迷い出ていることになかなか気がつくことができません。気づいたとしても、どうやって戻ればいいのか、その道も方法も分からず、力を失って弱り果ててしまう。それが私たちの姿であると聖書は言います。もし私たちが自力で神様のもとに帰らなければならないのであれば、私たちに希望はありません。人間は、自分の力では神様のもとに帰ることなど出来ないからです。しかし、聖書は言います。あなたのたましいを死から救い出し、あなたの罪をおおってくださる方がおられる。迷い出たあなたを心を熱くするほどの憐れみで慈しみ、あなたを連れ戻すために命まで捧げて下さった神がおられる。イエス・キリストは、神のもとから迷い出たあなたを救い出すためにこの世に来て下さった神のひとり子です。神のもとに帰る道を示し、その道をあなたと共に歩むために十字架にかかり、3日目に死からよみがえってくださったお方です。
 どんな人でも、神様のもとから迷い出ることがあります。しかし、どんな時でも、あなたを連れ戻すために心を尽くしていて下さる神様がおられます。あなたを迷いの道から連れ戻して下さるお方、イエス・キリストに一言お祈りしていただきたいと思うのです。「神様、どうぞ私を迷いの道から連れ戻して下さい」。神様の導きが、あなたに豊かにありますように。

何を握りしめて生きるのか(3)


  「何を握りしめて生きるのか」。前回に引き続き、聖書のことばに耳を傾けたいと思います。
 新約聖書ルカの福音書8章に、悪霊に苦しめられていた人物が登場します。その悪霊の名は「レギオン」と言い、それは「非常に大きな力」を示す名前でした。より大きな力、より多くのものを求めることで、逆にその欲望に支配され苦しむ人間の姿。聖書はそんな姿をここに描き出しています。その彼が、イエス・キリストと出会い、その呪縛から解き放たれました。自分の力では、そして人間の力ではもはやどうすることも出来ない状態から、イエス・キリストは人を解き放って下さるのです。自由になった彼に対して、主イエスはこう言われました。ルカの福音書8章39節のことばです。
「家に帰って、神があなたにどんなに大きなことをしてくださったかを、話して聞かせなさい。」そこで彼は出て行って、イエスが自分にどんなに大きなことをしてくださったかを、町中に言い広めた」。
私たちの人生で一番大きなこと。それは、イエス・キリストと出会い、イエス・キリストによって救われることだと聖書は言います。このお方と出会うとき、私たちはレギオンから、多くのものを求め続ける果てしのない欲望から解き放たれて自由にされるのです。
 イエス・キリストと出会い、イエス・キリストの愛と力を深く知らされるとき、私たちは本当の意味で満ち足りるようになります。そうして、知恵や力や富や名声という、多くのものを求め続ける終わりのない苦しみから解き放たれるのです。
 イエス・キリストは、あなたを自由にすることが出来るお方です。自分の力ではコントロールすることの出来ない欲望、苦しみをもたらす束縛、終わることのない苦しみから、イエス・キリストはあなたを自由にして下さるのです。
 「何を握りしめて生きるべきか」。聖書は言います。イエス・キリストが差し出していて下さる救いの手を握りしめるように。イエス・キリストが差しのばしていて下さる愛の手を握りしめて生きるように。
 イエス・キリストがあなたにどんなに大きなことをしてくださろうとしているのか。キリストの手を握りしめて歩むことで、あなたも体験して下さいますように。

何を握りしめて生きるのか(2)


 間違ったものを握りしめて生きるとき、人は本来あるべき尊厳を失い、滅びに向かうことになる。前回は、そのことについてお話しさせていただきました。「何を握りしめて生きるのか」。今日はその続きです。
 新約聖書ルカの福音書8章29、30節のことばをお読みします。
 「汚れた霊が何回となくこの人を捕らえたので、彼は鎖や足かせでつながれて看視されていたが、それでもそれらを断ち切っては悪霊によって荒野に追いやられていた・・・。イエスが、『何という名か』とお尋ねになると、『レギオンです』と答えた。悪霊が大ぜい彼に入っていたからである。」
 真の神ではないものを握りしめて生きていたこの人物は、結局、真の神ではないものに支配され、苦しめられることになりました。そしてその苦しみ、その支配は、、人間としてのいかなる試みをもってしても打ち破ることができないものでした。彼がしがみつき、彼を支配し苦しめていたものとは一体何だったのでしょうか。その本質が、主イエスの問いかけによって明らかにされます。この人物がしがみついていた悪霊、真の神ではないものの名前は「レギオン」といいました。この言葉は、六千人からなるローマ軍の一軍団を示す言葉で、非常に多く、非常に力強い様を示しています。彼がしがみつき、彼を虜にしていたもの。それは、より多くの力、より多くの豊かさを求める思いであったことを思わされます。
 私たちはどうでしょうか。私たちもまた、知恵や力、富や名声を求めるのではないでしょうか。その思いは、尊厳ある歩み、希望のある歩みをするために、ある意味不可欠なものであるようにも思います。しかし、真の神ではないこれらのものを求める渇きは、決して完全に満たされることなどないことを思わされます。それどころか、私たちはいつのまにかそれらのものに支配され、人としての尊厳や自由を失い、滅びに向かって歩むようにさえなってしまいます。
 それさえ獲得すれば幸せになれる。そう信じて追い求めてきたものが、実は終わることのない渇きへと私たちを駆り立て、永遠の滅びに向かう道に私たちを誘うことを思わされます。
 あなたに本当の満足と喜びを与えるもの。それは決してより多くの富、より多くの力、より多くの知恵ということではありません。神様の愛を知り、真の平安を得るようにと、聖書はあなたに語りかけています。

何を握りしめて生きるのか(1)


 何を握りしめて生きるのか。それによって、私たちの人生、否、永遠までもが大きく変わってきます。新約聖書ルカの福音書8章27節にある人物が登場します。
「イエスが陸に上がられると、・・・ 悪霊につかれている男がイエスに出会った。彼は、長い間着物も着けず、家には住まないで、墓場に住んでいた」。
 ここに、悪霊につかれ、人としての尊厳を失い、滅びへと向かって歩む一人の人の姿が示されています。「悪霊につかれている」と訳されているこの表現ですが、原文を直訳すると、「悪霊を持っている」となります。受身的な被害者というよりも、この人物が能動的、積極的に悪霊にしがみついていたということを聖書は示しています。「悪霊」と訳されている「ダイモニオン」という言葉について言えば、それは神々、あるいは神的なものを意味する言葉です。この人物が、真の神ではないものを神とし、それにしがみついて生きていた、ということが分かります。そして、真の神ではないものを握りしめ、それにしがみついて生きていた結果、この人物は人としての尊厳を失い、滅びに向かって歩んでいたということです。
 真の神ではないものを握りしめ、尊厳と希望を失って滅びに向かっていくこの人物の姿に、私たち人間の姿が示されているように思います。人によってその対象は様々に異なるかもしれません。ある人は富や名誉を、ある人は知恵や知識を、ある人は善人であるということを、ある人は自分の思いのままに生きるということを大切に握りしめて生きているかもしれません。しかし、もし私たちが真の神ではないそれらのものにしがみついて生きるなら、私たちはやがて滅びゆくそれらのものと共に滅びてしまうことになる。聖書はそう教えています。富も名誉も財産も、善人であることも思いのままに生きることも、それは本当の意味で人を豊かにし、本当の意味で人を救うことはできないのです。

 間違ったものを握りしめて生きるとき、私たちは人としてあるべき尊厳を失い、滅びに向かうことになると聖書は言います。あなたは今、どんなものを握りしめて歩んでおられるでしょうか。あなたを本当に豊かにし、尊厳と希望に満ちた永遠の歩みへと導く神様のことば、聖書のことばに耳を傾けていただきたいと思います。

どんな奇蹟を見れば


 イエス・キリストを救い主として信じるために、私たちはどんな奇蹟を見れば満足するのでしょうか。ある時、パリサイ人と呼ばれる人々がイエス様のもとにやって来ました。新約聖書マルコの福音書八章十一、十二節のことばです。
「パリサイ人たちがやって来て、イエスに議論をしかけ、天からのしるしを求めた。イエスをためそうとしたのである。イエスは、心の中で深く嘆息して、こう言われた。『なぜ、今の時代はしるしを求めるのか。まことに、あなたがたに告げます。今の時代には、しるしは絶対に与えられません。』」
 パリサイ人と呼ばれていた人たちは、救い主について自分たちなりの考え方を持っていました。そして彼らは、イエス・キリストは自分たちが思い描く救い主に当てはまるのかどうか、そのことをためそうとして「天からのしるし」、自分たちが思い描く奇蹟を見ることを求めたのです。
 私たちの内側にも、しるしを求める思いがあるのではないでしょうか。イエス・キリストを救い主として信じるために、私たちは時に奇蹟がなされることを求めることがあります。しかし、そんな私たちに対してイエス様ははっきりとお答えになられました。「今の時代には、しるしは絶対に与えられません」。一体なぜ、私たちが願い求めるしるしは与えられないのでしょうか。それは、そのような奇蹟が叶えられたからといって、私たちが正しくイエス・キリストを信じることができないからです。否、それどころか、自分が思い描く奇蹟が叶えられることによって、私たちは救い主についての自分勝手なイメージを益々強く持つようになり、本当の救い主イエス・キリストよりも自分のイメージ、自分の考えにしがみつくようになるからです。
 イエス・キリストを救い主として信じるために。必要なのは私たちが願い求めるしるしではありません。そうではなく、ありのままのイエス・キリストを知ること。すなわち、このお方がなさったこと、このお方が語られたことを聖書を通して知らされること。それこそが私たちが真の救い主を正しく信じるために必要なことなのです。自分の考え方、自分の思い描くイメージを優先させるのではなく、聖書が示す救い主イエス・キリストをありのままに知らされる。それこそが、あなたが真の救い主と出会うために必要なことなのです。

意外な行為


 イエス・キリストがなさることは、時に私たちの予想を超えています。
 新約聖書マルコの福音書7章33ー35節にこんな出来事が記されています。
 「人々は、耳が聞こえず、口のきけない人を(イエスのもとに)連れて来て、彼の上に手を置いて下さるよう、願った。そこで、イエスは、その人だけを群衆の中から連れ出し、その両耳に指を差し入れ、それからつばきをして、その人の舌にさわられた。そして、天を見上げ、深く嘆息して、その人に「エパタ」すなわち、「開け」と言われた。すると彼の耳が開き、舌のもつれもすぐに解け、はっきりと話せるようになった。」
 人々はイエス様に、「彼の上に手を置いてくださるよう」に願いました。多くのいやしの奇蹟を行っておられたイエス様ですから、手を置いていただくだけで手早く簡単に癒していただけると考えたのでしょう。実際、イエス様はそのように簡単にいやすことも出来たと思うのです。それでは、なぜこの時、これほど丁寧ないやしが行われたのでしょうか。それは、全ての人に対するイエス様の変わらない深い愛を示すためであったものと思われます。この時イエス様の元に連れてこられた病人は、異邦人、すなわちユダヤ人ではない人物でした。イエス様は人としてはユダヤ人としてこの世にお生まれになりましたが、当時のユダヤ人は、異邦人を蔑み、異邦人との関わりを一切持とうとしませんでした。ですからこの時のイエス様の行為、個人的にその異邦人と向き合い、丁寧に問題を扱い、心の底からその人の回復を願ったその行為は、人々の予想を遙かに超えた意外な行為であったと言えます。ですが、イエス様はこの意外な行為を通して、全ての人に対する変わらない愛、どこまでも深い愛を示そうとされたのだと言えます。
 このことを通して、私たちはイエス様によるもう一つの意外な行為、肉体の癒しよりもはるかに大切な罪の赦しについて教えられることができます。
 イエス・キリストは、神の語りかけに耳を傾けようとしない私たち人間と誠実に向き合い、その罪を丁寧に示し、私たちを何とかして罪から救い出そうとして、十字架にかかってくださいました。人を罪から救い出すため、神の御子がご自分のいのちをお与え下さった。イエス・キリストによるこの行為は、私たちの目にはあまりにも意外な行為であると言えます。しかし、この意外な行為、イエス・キリストの十字架にこそ、すべての人に対する神様の変わらない深い愛が示されているのです。あなたと向き合い、あなたの罪を赦すことを切に願っておられるイエス・キリスト。あなたも、このお方と向き合ってみてはいかがでしょうか。

イエス様のすばらしさ


 イエス様の素晴らしさについて、私たちは時に大きな誤解をしていることがあるのではないでしょうか。

 ある時、イエス様は一つのいやしを行われました。耳が聞こえず、口がきけない人をいやされたのです。その時イエス様は、いやされた人と周囲にいた人々に対してこう言われました。「このことをだれにも言ってはならない」。肉体のいやしばかりに人々の目が向けられてしまうことを危惧されたのでしょう。しかし、「彼らは口止めされればされるほど、かえって言いふらした」と聖書は言います。新約聖書マルコの福音書7章36,37節のことばをお読みします。
 「イエスは、このことをだれにも言ってはならない、と命じられたが、彼らは口止めされればされるほど、かえって言いふらした。人々は非常に驚いて言った。『この方のなさったことは、みなすばらしい。耳の聞こえない者を聞こえるようにし、口のきけない者を話せるようにした』」。
 人々が非常に驚き、すばらしいと賞賛したもの。それは、肉体のいやしでした。そして、彼らは肉体のいやしに目を奪われる余り、イエス様のことば、イエス様が本当に伝えようとされたことを無視するようになってしまいました。

 イエス様の本当の素晴らしさ。私たちが心から驚き、賞賛すべきこととは、一体何なのでしょうか。それは、このお方が十字架にかかって死んでくださったことだと盛暑は教えています。私たちをどこまでも深く愛し、私たちを罪から救うためにいのちまで与えて下さった。そして、十字架の死後3日目によみがえり、今も私たちを罪から聖め続けてくださる。そこにこそ、イエス様の本当のすばらしさがあるのです。

 肉体のいやしもたしかに大切です。そして、イエス様は私たちの肉体の痛みにも憐れみを覚えていて下さいます。しかし、肉体の死の後も続く永遠のいのち、神様と共に永遠に歩む幸いは、他の何にも優って大切です。
 イエス様の本当のすばらしさ。私たちの罪を赦し、私たちを聖め続け、永遠のいのちに生かして下さるそのすばらしさに、しっかりと目を留め続けたいと思わされます。そしてそのために、イエス様の語られることば、聖書のことばに、しっかりと耳を傾けたいと思うのです。

人をけがすもの、人を聖めるもの


(※ 新年を迎えるにあたって書かれたメッセージです)

 日本人の多くは、大晦日には除夜の鐘を聞き、元旦には初詣に出かけます。汚れを取り除き、聖い身となって新しい年を過ごしたい。そんな願いがあるからではないかと思います。
 それでは、汚れと聖めについて、聖書はどのように教えているのでしょうか。イエス様はある時こんなお話をなさいました。新約聖書マルコの福音書7章20節21節のことばです。
 「人から出てくるもの、これが、人を汚すのです。内側から、すなわち、人の心から悪い考えが出てくるのです」。(一部試訳)
 人を汚すもの。それは、外側から入ってくる物ではなく、内側から出てくるもの、人の心から出てくる「悪い考」えであるとイエス様は言われました。形式的で外面的な事柄ではなく、私たちの内側にあるものにこそ目を留めるように聖書は教えています。
 それでは、人を汚すこの「悪い考え」とは、一体どのような考えなのでしょうか。このことについて、イエス様はある人たちにこう言われました。「あなたがたは、自分たちの言い伝えを守るために、よくも神の戒めをないがしろにしたものです」(同9節)。
人を汚す悪い考え。それは、自分の考えを優先させるために神様の教えをないがしろにしようとする考えだと聖書は教えています。神様の思いを無視し、自己中心に生きようとする考え。そうやって神様から離れて生きようとする考え。それこそが人を汚すのだと聖書は教えているのです。
 それでは、私たちは一体どうすれば汚れを取り除くことができるのでしょうか。どうすれば、自己中心ではなく、神様を正しく重んじる聖い生き方が出来るのでしょうか。それは、良い考えを心に入れること、すなわち、聖なる神様の思いを心に注いでいただくことだと言えます。知恵と力、愛と正義に満ちた神様。その神様の思いが心に注がれ、神様の愛で心が満たされるとき、私たちは感謝と喜びに満ちて、聖められた者として神様と共に歩むことができます。

 新しい年。あなたの心に神様の愛が一杯に注がれますように。今年も、神様のことば、聖書のことばを通して神様の愛を共に味わわせていただきたいと願います。

本当の喜びをさがして


 本当の喜びとは一体どこにあるのでしょうか。ルカの福音書十五章には、喜びを探して旅をした若者の物語が記されています。

ある日、彼は父親に向かってこう言いました。「お父さん。私に財産の分け前をください」。そして、父親から財産を譲り受けた彼は、幾日も経たぬうちに何もかもまとめて遠い国に旅立ってしまいました。多くのお金があり、自分の思い通り自由に生きられれば喜びが得られると考えたのでしょう。しかし、現実は違いました。父親の元を離れた彼は湯水のように財産を使い果たし、放蕩生活の果てに絶望的な状況に身を落としてしまったのです。彼は食べるにも困り果て、惨めさの極限まで体験します。
 そんな時、彼は父の元へ帰ることを決断しました。熱心に謝罪して父の赦しを得、何とかして食物にありつこう。そう考えたのです。しかし、父のもとに向かう彼に意外な出来事が起こります。ルカの福音書十五章二十節にこうあります。「こうして彼は立ち上がって、自分の父のもとに行った。ところが、まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけ、かわいそうに思い、走り寄って彼を抱き、口づけした」。父は怒っているはずだ。何とか謝罪して赦しを勝ち取らなければ。そう考えていた彼に対し、予想をはるかに超えた深い愛が示されたのです。怒りと憎しみではなく、愛と赦しがそこにはありました。父親の愛に包まれた時、彼はこう言いました。「お父さん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません」。愛を知らされた者の心からの悔い改めの言葉でした。そして、そんな息子を父親は改めて喜んで受け入れ、再び息子として迎え入れたと言います。

 本当の喜びとは一体どこにあるのか。この物語はそのことを私たちに教えています。 本当の喜び。それは、私たちが神様のもとに立ち返り、愛に満ちた神様と共に生きるところにこそあるということです。
 喜んであなたを迎え入れて下さる神様。この神様のもとに立ち返り、この神様と共に歩む喜び。そんな喜びを、あなたも体験してみてはいかがでしょうか。

心を痛める神


 心を痛めるほどに人を愛する神様。今日は、そんな神様の愛に目を留めたいと思います。

 旧約聖書創世記6章6節にこんな言葉があります。「・・・ 主は、・・・ 心を痛められた」
 「主は心を痛められた」。この言葉は、神様の思い、あの「ノアの洪水」によって人類が滅ぼされる前の神様の思いを示しています。当時、人々は皆、神様を無視し、神様に背いて歩んでいたと聖書は言います。

 私たち人間が神様を無視し、神様に背いて生きるとき、神様はどのような思いをされるのでしょうか。「主は、心を痛められた」。神様は、神様から離れて歩む人をさげすんで冷たく突き放そうとするお方ではありません。むしろ、心を痛めていてくださる。人が神様から離れて歩み、それ故にさばきを身に招くことに心を痛めていてくださる。聖書は神様をそのように教えています。
 「主は心を痛められた」。ここに、私たちの予想をはるかに超えた深い愛が示されています。限りない愛の故に人を造られた神様は、どこまでも人を愛していてくださる。神様から離れて歩む人のために心を痛め、その人が救われることを願っていて下さる。聖書はそう教えているのです。

 神様から離れて歩む人間を見つめる神様の目に、私たちは一体何を見ているでしょうか。そこにあるのは冷酷な怒りや無関心などではありません。心を痛めるほどの愛。あまりにも深い愛があるということ。私たちはそのことを忘れてはならないと聖書は教えています。

 今、あなたは神様の目に何を見ておられるでしょうか。心を痛めるほどの深い愛。あなたに向けられたその愛に、どうか目を留めていただきたいと思います。そして、あなたを愛し、あなたが救われることを願っていて下さる神様の語りかけ、聖書のことばに耳を傾けていただきたいと思うのです。
 「主は、心を痛められた」。あなたに向けられた神様の愛。その愛に、あなたが目を留めてくださいますように。

必要な強さ、必要な弱さ


 私たちは、一体どれほどの強さ豊かさを手に入れれば幸せに生きられるのでしょうか。

 旧約聖書創世記4章には、人類が大きく分けて二つの流れに分かれていったことが記されています。人が目指した一つの流れ、それは「強さ」を追い求める生き方でした。より多くより豊かでより強い生き方。ある人々はそんな生き方を目指し、実際、それを手に入れたと言います。彼らの人生の目的は喜び楽しむことにあり、表面的には賢く豊かな生き方が実現しました。しかし、その内側には自己中心の罪と恐れが潜み続け、結局その歩みはうわべだけの儚いものであったと聖書は言います。人間の知恵と力にのみ信頼して歩む神なき歩み。神に感謝せず、神を拒絶して生きる生き方。それは決して豊かな歩みではなかったと言えます。
 一方、それとは対照的に「弱さ」を受け入れて歩む人々もありました。彼らはなぜ「弱さ」を受け入れることが出来たのでしょうか。それは、彼らが神の恵みに目を留めたからだと聖書は教えています。神の深い愛、その豊かな恵みに心を留め、神が守り養ってくださることに信頼して生きる。彼らはその生き方を目指したのです。その結果、彼らは神との豊かな交わりを体験し、人としての「弱さ」を感謝して受け入れることができました。弱さを認めつつ、神の恵みに信頼し、神とともに歩む。その歩みこそ、真に豊かで幸いな歩みであると聖書は教えています。

 神の存在を認め、神の愛と恵みに信頼して歩む。その人は、終わることのない背伸びをし続ける必要はありません。ことさらに強さを求め、豊かさを追い求める生き方をしなくても良いのです。自らの弱さ、人間としての儚さをを認めつつ、神の豊かな恵みに身を委ねて生きる。そこにこそ真に幸いな歩みがあると聖書は言います。終わることのない背伸びをやめて、ありのままの自分で神に愛され守られて生きる。聖書が約束するそんな幸いな生き方に、あなたも目を留めてみてはいかがでしょうか。


感謝の心


感謝の心を持って生きるのか、それとも感謝の心を持たずに生きるのか。それによって、私たちの人生、いや永遠までもが大きく異なってくると聖書は言います。
 旧約聖書創世記4章に、二人の兄弟が登場します。兄の名はカイン、弟の名はアベルと言いました。ある時、この二人が神様に礼拝を捧げます。弟アベルは、神様の愛、神様の恵みに心から感謝し、最高のささげものを捧げました。しかし、兄カインはそうではありませんでした。ささげものを捧げはしましたが、そこには真心からの感謝がありませんでした。同じように神様に愛され、同じように多くの恵みを頂いていた二人でした。しかし、兄カインは神様への感謝の心を持とうとしませんでした。その結果、彼の心は妬みと憎しみ、自己憐憫と不平不満の思いに支配され、とうとう弟アベルを殺害してしまいました。これが人類最初の殺人であったと聖書は言います。神様への感謝を忘れた心、不平不満に満ちた心が、恐ろしい結果を招いてしまったのです。

 神様への感謝を忘れずに生きる人は幸いです。その人は、良い思いで心が満たされ、喜びと平安のうちに歩むことができます。勿論、神様に感謝していればすべてが上手く行き、いつも繁栄が得られるということではありません。実際、あの弟アベルは兄カインに殺害されてしまいました。しかし、感謝に満ちて歩んだアベルは、死んだ後に天の御国に行き、永遠の喜びと平安を頂き、さらに感謝しつつ永遠に生きる者とされたと言えます。

 神様への感謝。それは、神様の愛、神様の恵みに丁寧に心を留めるところに生まれます。
神様はあなたを愛し、あなたに多くの恵みを与えようとしていてくださいます。神様のひとり子イエス・キリストが十字架につかれたのは、実に、あなたを愛し、あなたを救い、あなたの心に永遠の感謝を与えるためであったのです。

 神様への感謝の心。あなたも、どうそ、その心を忘れずに、喜びと平安に満ちた毎日を歩んで下さいますように。

永遠に生きたいですか


「永遠に生きたいですか」。そう問われるなら、あなたはどうお答えになるでしょうか。

 旧約聖書創世記3章22節にこんな言葉があります。
「神である主は仰せられた。「見よ。人はわれわれのひとりのようになり、善悪を知るようになった。今、彼が、手を伸ばし、いのちの木からも取って食べ、永遠に生きないように。」
これは、神によって造られた最初の人間が罪を犯した直後に語られた言葉です。人は創造主である神に背き、神を無視して勝手に生きるようになった。その結果、人は「永遠に生きないように」されたと聖書は言います。

 「永遠に生きないように」。かつて私は、これは罪を犯した人間に対する神様からの厳しい罰だと考えていました。しかし、よく聖書を読むときに、否、これはむしろ神様の憐れみであるということが分かるようになってきました。私たちが神様から離れたまま、罪あるままで永遠に生きないように。神様はそう願ってくださったということです。そして、神様は、私たちの罪が赦されて、私たちが神様と共に永遠に生きることを願っていて下さる。聖書はそう教えています。

 そして、実に、神様のひとり子イエス・キリストは、神様のその願いの実現のためにこそ、この世界に来られた。聖書はそう教えているのです。私たちの罪が赦され、私たちが再び神様と共に生きることができるように。そのためにこそ、イエス・キリストは私たちの身代わりとなって十字架にいのちをお与え下さったのです。神様に罪赦されて、神様と共に歩む。それは、深い平安と喜びに満ちた歩みであり、この地上での生涯のみばかりではなく、まさに永遠に味わう価値のある歩みです。

聖書のことば、イエス・キリストのことばです。「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです」(ヨハネ11:25)。

絶望の先にある希望(2)


 「絶望の中にも希望がある」。否、「絶望の先にこそ真の希望がある」。聖書は私たちにそう教えています。
 新約聖書、マルコの福音書5章に一人の男性が登場します。彼は、イエス・キリストの足下にひれ伏し、懸命に願ってこう言いました。「私の小さな娘が死にかけています。どうか、おいでくださって、娘の上に御手を置いてやってください。娘が救われて生きるように(直って助かるように)してください」。
 そこで、イエス・キリストは彼と一緒に彼の家に向かわれました。しかし、一行がまだ家に着くその前に、彼の元に使いの者がやって来て言いました。「あなたのお嬢さんは、なくなりました。なぜ、このうえ先生を煩わすことがありましょう」。
 この男性にとって、一縷の望みが絶ち切られた瞬間であったと言えます。人を絶望に突き落とす死の闇を前に、正にすべての希望が奪われたように思うのです。しかし、その彼に対して、イエス・キリストはこう言われました。「恐れないで、ただ信じていなさい」。この男性には、恐れを覚え、絶望に沈むべき理由が確かにあった筈です。しかし、それでも尚、イエス・キリストは、「恐れないで、ただ信じていなさい」と言われました。
 イエス・キリストを信じるのであれば、そこに勝手な限界を設けてはならない。たとえ人の目には絶望にしか見えない様な時にも、信じるならば必ず救われる。聖書は、私たちにそう教えています。そして、この後イエス・キリストは彼の家に行き、娘の手を取り、彼女を死の眠りから呼び覚ましたと聖書は教えています。人の目には完全な絶望しかないところに、イエス・キリストは真の希望と救いをお与えくださったのです。
 あなたは、「もうだめだ」と決めつけてしまってはいないでしょうか。「恐れないで、ただ信じていなさい」。イエス・キリストの言葉を信じ、イエス・キリストを信じ抜こうとする者は、必ず救われる。聖書はそう約束しています。「絶望の先にこそ真の希望がある」。そのことを信じ、あなたも、イエス・キリストに希望を求めてみてはいかがでしょうか。

絶望の先にある希望(1)


 「絶望の中にも希望がある」。否、「絶望の先にこそ真の希望がある」。聖書は私たちにそう教えています。
 新約聖書、マルコの福音書5章に一人の女性が登場しています。その女性は、病のために全ての希望を失いそうになっていたと言います。十二年にも渡って病に苦しみ、多くの医者にかかりましたが、全財産を使い果たしても尚、かえって悪くなる一方であったのです。
 しかし、そんなある日、彼女はイエス・キリストのことを耳にします。「このお方なら、きっと私を救って下さる」。彼女はそう信じ、イエス・キリストの元に行くことにしました。そして、人込みをかき分け、うしろからイエス・キリストの着物にさわったのでした。
 彼女には、諦める理由が幾つもあったと思うのです。多くの医者がそうであったように、イエス・キリストにも彼女を直すことが出来ない。そう考えることも出来ました。また、病で疲れ果てた彼女にとって、イエス・キリストの元にまで行き、人込みをかき分けてその前に出るということも、大変な事であったと思うのです。しかし、彼女は多くの困難の中でも諦めることなく、最後の希望にしがみつくようにしてイエス・キリストの元へやって来たのでした。そして、その結果、彼女の病はいやされたと聖書は報告しています。
 その彼女に対して、イエス・キリストはこう言われました。「娘よ。あなたの信仰が、あなたを救ったのです。安心して行きなさい」。たとえそれがどれほど絶望的な状況であれ、イエス・キリストを信じるならばあなたは救われる。肉体の癒しよりもはるかに大切な、魂の救いを体験するようになる。聖書は私たちにそう教えています。
 様々な困難の中で希望を失いそうになる時、どうぞ諦めることなく、イエス・キリストのことを思い出してください。イエス・キリストを信じる者は、絶望の中にも、否、絶望の先にこそ真の希望を見いだし、救いを頂くようになるからです。

新しく生まれる


人は誰でも「新しく生まれる」ことができる。聖書はそう教えています。
 今から約2千年前、イエス・キリストのもとにニコデモという人物がやって来ました。このニコデモは、人の目から見れば、地位も名誉も財産もあり、宗教的にも道徳的にも非の打ち所がない人物であったと言います。しかし、そんな彼でしたが、それでも尚どこか何かが決定的に欠けていると感じていたようです。全てを持っているようであって、実は何も持っていない。そして、その最も大切なものは最早人間的な努力では手に入れることができない。そのことに気づくということは、大変に苦しいことであったと思うのです。しかし、そんな思いを抱えていたからこそ、彼はイエス・キリストのもとへやって来たと言えます。
 そのニコデモに対し、イエス・キリストはこう言われました。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることができません」。「人は新しく生まれなければならない」。それは、古い自分のままでは「神の国を見ることができない」からだと言います。神の国を見るという表現は、神との豊かな交わりに生きるということを意味しています。生ける真の神と親しい交わりを持ち、神に守られ、神に教えられ、神に導かれて生きる。神が与えようとしていてくださるそんな生き方を実際に体験するために、人は新しく生まれなければならないというのです。
 あなたはいかがでしょうか。何も足りないものはないと思える反面、どこか何かが決定的に欠けている。そんな思いをお持ちではないでしょうか。
 「あなたは新しく生まれることができる」。イエス・キリストは、あなたにそう語りかけておられます。そして、そのためにこそ、イエス・キリストは十字架にかかり、復活し、あなたにいのちを与えようとしていて下さるのです。あなたがイエス・キリストを救い主として信じ、それによって新しいいのちを受け取り、神との豊かな交わりに生きること。それこそがイエス・キリストの願いです。「あなたは新しく生まれることができる」。聖書が語るこのメッセージを、あなたにも是非知って頂きたいと思います。

きっかけ



 人がイエス・キリストに特別な関心を持つ時、そこには何らかのきっかけがあるように思います。今から約2千年前、一人の人がイエス・キリストのもとにやって来てこう言いました。「先生。私たちは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神がともにおられるのでなければ、あなたがなさるこのようなしるしは、だれも行うことができません」。イエス・キリストがなさっていたしるし。それが彼を惹きつけたと言います。しるしとは、あるものを他のものと区別するものだと言えます。その頃、イエス・キリストは様々な奇蹟、イエス様にしかできないことを行っておられました。そして、それらの奇蹟がしるしとなり、キリストに特別な関心を持つ人々が起こされていったと言うのです。
 現代の私たちにとって、しるしとは何でしょうか。イエス様にしかできないこととは、一体何なのでしょうか。私にとってのしるし、それは私の母でした。今から約25年前、私の母は絶望の底にいました。言い尽くしがたい苦難の中、希望を失い、笑顔を失い、生きる意味も分からず、ただ嘆くだけの毎日を過ごしていました。しかし、その母がある時から教会に通うようになり、聖書を読み、イエス・キリストを救い主として信じるようになりました。そして、私の母はイエス・キリストによって変えられたのです。それまでの絶望が希望に、悲しみが喜びに、涙が賛美に変えられる奇蹟を、私は目の当たりにしました。人が新しくされる。イエス・キリストにしかできないそんな奇蹟を見た私は、教会に通うようになったのです。
 教会には、そんなしるしが沢山あります(「わたしがクリスチャンになった理由」)。イエス・キリストによって内側が変えられ、希望と喜びに満ちて生きるようになった人々が沢山いるのです。人が新しくされるという奇蹟。イエス・キリストにしかできないそんなしるしに、あなたにも出会って頂きたいと願います。そして、そのためにも是非、教会に行っていただきたいと思うのです。イエス・キリストにしかできない素晴らしいしるし。あなたがそんなしるしを知ることによって、イエス・キリストに今まで以上の関心を持ってくださいますよう、心から願っています。

愛があるから


 愛があるから、人が嫌がるようなことでも喜んでできる。新約聖書ルカの福音書7章には、人が嫌がることを喜んで行った女性が登場します。
 その女性は、かつては罪深いことで知られた人物でした。しかし、彼女はイエス・キリストと出会い、その愛と憐れみに触れて罪を悔い改め、新しい歩みを始めていたのでした。その彼女が、ある時、人に招かれて食卓についておられるイエス様の足が汚れていることに気づきました。当時の人は舗装されていない道をサンダルで歩きましたから、汗と埃で足が大変汚れたのです。招いた客人の足を洗って差し上げるのは当時の最低限のマナーでした。しかし、誰一人としてイエス様に足を洗う水を差し上げようとしなかったのです。彼女はイエス様のそばに来ると、その足を真心を込めて一生懸命に洗い、その足に高価な香油を注いだと言います。イエス様に対する溢れる感謝と深い愛が、彼女をそんな行動に駆り立てたのだと言えます。
 一方、イエス・キリストもまた、その深い愛の故に、人が嫌がることを喜んで行って下さったお方です。イエス様が洗って下さったもの、それは足にこびりついた泥や埃ではありません。そうではなく、私たちの心にこびりついた罪の汚れ。誰もが目を背け避けようとするそんな罪を、イエス様は十字架にかかることで洗い清めて下さったと聖書は教えています。イエス・キリストは、人を罪からきよめるために、十字架にかかってくださいました。私たちに対するその深い愛の故に、ご自分のいのちを身代わりとして進んで捧げて下さったのです。そして、このイエス・キリストを信じるなら、その人の罪は赦され、きよめられると聖書は約束しています。
 イエス・キリストは、あなたを愛しておられます。そして、その愛の故に、十字架にかかってくださったのです。イエス・キリストの十字架、それはまさに、あなたを愛し、あなたを救おうとする深い思いに突き動かされたものであったと聖書は教えています。あなたも、このイエス・キリストの愛を受け入れ、感謝と喜びに満ちた人生を歩んでみませんか。

争いの原因


 考え方の違いで人とぶつかることは少なくないと思います。それが大切なことであればあるほど、そして、自分の考えに確信があればあるほど、その衝突は激しくなります。どうすれば、そのような争いを治めることができるのでしょうか。相手よりももっと賢く、もっと正しく、もっと熱心になれば、問題は解決するのでしょうか。新約聖書ヤコブの手紙4章1節にこんな言葉があります。「何が原因で、あなたがたの間に戦いや争いがあるのでしょう。あなたがたのからだの中で戦う欲望が原因ではありませんか」。
 「私たちのからだの中で戦う欲望」。それこそが争いの原因であると聖書は言います。ここで「からだの中で戦う」と訳されている言葉は、「メンバーの間で戦う」という意味があります。また、「欲望」と訳されている言葉には、「喜び/願い」という意味もあります。私たち一人一人にはそれぞれ異なる喜びや願いがある。しかし、それを互いにぶつけ合わせるならば争いが生じる、と聖書は教えているのです。確かに、ある人にとっては正しく望ましいと思われるようなことが、他の人にとってはそうではないということがあります。ですから、自分こそが正しいと考え、自分が喜びとし願っていることこそが実現されるべきだという考え方を改めることが、争いの解決のために大切だと言えます。
 しかし、実際にはそれは簡単なことではありません。自分を過信しないようにとは思っても、相手も人間である以上、ついつい比較や競争がはじまり、争いが生じてしまいます。また、自分も相手も共に間違っていることもあり得るのです。
 それでは、争いを収めるために聖書は何と教えているのでしょうか。先ほどの言葉に続くヤコブの手紙4章10節にはこう教えられています。「主の御前でへりくだりなさい。そうすれば、主があなたがたを高くしてくださいます」。自分か相手かという対比ではなく、誰よりも賢く、誰よりも愛と力に満ちておられる神の存在を認めるということ。そして、その神の前に身を低くして謙遜になること。そこにこそ、真の平和への道があると聖書は言います。そして、そのように神を認めて信頼し、神の前に身を低くするなら、神が問題を解決してくださると聖書は約束しています。
 知恵と愛と力に満ちた神を認め、その神によって平安を頂く人は幸いです。聖書の言葉。「主の御前でへりくだりなさい。そうすれば、主があなたがたを高くしてくださいます」。

本当の豊かさ


「豊かさ」とは何でしょうか。ある時,イエス様はひとつのたとえを話されました。

 「ある金持ちの畑が豊作であった。そこで彼は、心の中でこう言いながら考えた。『どうしよう。作物をたくわえておく場所がない。』 そして言った。『こうしよう。あの倉を取りこわして、もっと大きいのを建て、穀物や財産はみなそこにしまっておこう。そして、自分のたましいにこう言おう。「たましいよ。これから先何年分もいっぱい物がためられた。さあ、安心して、食べて、飲んで、楽しめ。」』 しかし神は彼に言われた。『愚か者。おまえのたましいは、今夜おまえから取り去られる。そうしたら、おまえが用意した物は、いったいだれのものになるのか。』」(Lk.12:16-20)

 この金持ちは,「豊かさ」について大きな思い違いをしていました。「お金さえあれば,物さえあれば,自分は豊かに生きていける。」この金持ちのように考えている人は決して少なくないでしょう。しかし,聖書は言います。「いくら豊かな人でも,その人のいのちは財産にあるのではありません。」そうです。お金や物をどれほど持っていたとしても,それは真の豊かさではないのです。

 それでは,何が本当の「豊かさ」なのでしょうか。イエス様はたとえ話の最後でこう言われました。「自分のためにたくわえても,神の前に富まない者は愚かです」。そうです。神がいないかのように自分だけを信頼して必死に生きることをやめ、神に信頼して神と共に歩む。それこそが本当の「豊かさ」,状況によって左右されることのない真の豊かさなのです。

 そうすると,本当の「豊かさ」とは,私たちからそんなに遠くにあるものではないのかもしれません。私たちを愛し,私たちの必要の全てを与えてくださる神を認め,与えられている恵みに感謝して生きる。そんな「豊かな生き方」を,皆様も経験されますように。

 湘南のぞみキリスト教会では、毎月第2日曜日の礼拝を「歓迎礼拝」としています。はじめて礼拝に出席される方にも分かりやすいメッセージが語られています。「本当の豊かな生き方」を教え、そのように生かしてくださる神様の御言葉に共に耳を傾けてみませんか。

空の空


「人生とは何か」。そのように問われるなら、あなたは一体どのようにお答えになるでしょうか。
 「空の空、すべては空」(伝道者の書1章2節)。旧約聖書にある伝道者の書にはそのような人生観が示されています。「空の空、すべては虚しい」。悲観的と言えばあまりに悲観的な人生観ですが、この伝道者が語る理由を聞けば、「なるほど」と言わざるを得ないかもしれません。彼は言います。「知恵ある者も愚かな者とともに死んでいなくなる」(同2章16節抜粋)。確かに、私たち人間がどれほど苦労したとしても、そうやって知識と名誉と財産を蓄えたとしても、やがて「ちりに帰る」というのでは「空の空、すべては空」と言わざるを得ないかもしれません(実際、深刻な病を宣告された方が夢も希望も失って自暴自棄になるという話もないわけではありません)。
 それでは、聖書は私たちの人生をそのように虚しく意味のないものだと教えているのでしょうか。いいえ、決してそうではありません。聖書は私たちに「死」をも凌駕する「いのち」の希望を約束しています。イエス・キリストは言われました。「わたしを信じる者は、死んでも生きるのです」(ヨハネ11:25)。様々な労苦の末にちりに帰らなければならない私たちが、イエス・キリストを信じることによって「死んでも生きる」、すなわち死後に復活して神と共に生きるようになると聖書は約束しているのです。そして、ここにこそ希望、人類最後の敵である「死」をも打ち破る希望があると言えます。イエス・キリストによって罪赦され、一度死んでも尚よみがえって神様と共に歩む。そんないのちを、聖書は約束しているのです。
 「わたしを信じる者は、死んでも生きるのです」。イエス・キリストの語られたこの約束にこそ、「空の空」ではない真に幸いな人生があると言えます。「人生とは何か」。そのように問われるとき、あなたが感謝と喜びに満ちた幸いな答えをすることができますように。

あかりが来たのは


 同じ言葉が語られても、それを受け止める人の態度によってその効果は大きく異なります。
 ある時、イエス様は次のようなたとえを話されました。「あかりを持って来るのは、枡の下や寝台の下に置くためでしょうか。燭台の上に置くためではありませんか。隠れているのは、必ず現れるためであり、おおい隠されているのは、明らかにされるためです」。神様のことばをどのように受け止めるべきか。そのことについて教えるため、イエス様はこのたとえをお話しになりました。ここでの「あかり」とは神様のことばをさしています。そして、「あかり」である神様のことばをどのように受け止めるか、私たちの態度が大切であるということが教えられています。もしも、その「あかり」を升の下や寝台の下に置いてしまうなら、それは本来の力を発揮することができなくなります。しかし、その「あかり」を燭台の上に置くなら、それは隠されているものを明らかにし、覆い隠されているものを明るみに出すことが出来ます。同じ神様のことばであっても、それをどのような態度で聞こうとしているのか、それによって大きな違いがあるということです。
 「あかり」と言われる神様のことばは、隠されているものを明らかにすることができます。人間の常識や想像では量り知ることの出来ない真の神様について、あるいは、自分の内側に潜んでいる罪とその解決について。神様のことばは、「あかり」としてそれらの事柄を私たちにはっきりと示すことができるのです。小さな「あかり」は、一見弱く価値のないものにしか見えないかもしれません。しかし、その「あかり」にこそ、他の何物にもなし得ない素晴らしい力があるのです。
 イエス様は言われました。「あかりが来たのは、燭台の上に置かれるためです」。あなたに語りかけられている神のことば、聖書のみことばに、どうぞ今一度丁寧に耳と心を傾けてみてはいかがでしょうか。その時、人間の力では知り得ない大切な事柄が、あなたにはっきりと示されるはずです。

嵐を治める神


私たちは時に、人生の嵐に遭遇することがあります。自分の経験や能力や努力ではどうすることもできない、そんな苦しい状況に立たされることがあると思うのです。
 今から約2千年前、イエス・キリストとその弟子たちはガリラヤ湖という湖で嵐に遭遇しました。激しい暴風が起こり、彼らの舟は波をかぶって今にも沈みそうになりました。ところが、何とイエス様は舟の後ろの方で眠っておられました。弟子たちはイエス様を起こして言いました。「先生。私たちがおぼれて死にそうでも、何とも思われないのですか」。自分たちの苦しみ、自分たちの必死の努力に思うように応答してくださらない。イエス様に対する、弟子たちのそんな焦りと憤りが伺えます。すると、イエス様は起き上がり、風をしかりつけ、湖に「黙れ、静まれ」と言われました。そして、風はやみ、嵐は完全に収まったと聖書は言います。
 あの嵐の中、弟子たちはイエス様に対する自分たちの理解が十分ではなかったことに気づかされました。彼らは、イエス様のことを、実際には人を救うことが出来ない愛も力もない者であると、どこかで考えていたと言えます。しかし、実際にはイエス様は彼らを深く愛し、彼らを救い出してくださいました。それも、彼らがイエス様の愛と力を深く知ることができるよう、大切なことをしっかりと知ることができるよう、一番相応しい時に救い出して下さったのです。
 人生の嵐に遭遇するとき、イエス様の力を信頼し、イエス様の愛に頼る人は幸いです。どうすることもできない状況の中で、イエス様の力、イエス様の愛に信頼すなら、その人は必ず救い出されるからです。イエス様は嵐を収めることの出来る神です。どうぞあなたも、あなたを愛しあなたを救うことが出来る神、イエス・キリストのことばに耳を傾けてください。

あなたの道を備えるお方


 あなたはこれまでに、道に行き詰まるという経験をなさったことがおありでしょうか。自分の能力や経験や頑張りではもうどうにもならない。あるいは今、そんな経験をしておられる方があるかもしれません。
 聖書の中に、イエス・キリストに関するこんな教えがあります。「(この方こそ)、あなたの前にあなたの道を備えてくださる」(ルカ7章27節参照)。ここで「備える」と訳されている言葉は、「造り出す」というニュアンスを持っています。生きることに行き詰まり、もうどこにも道を見いだすことができない。そんなあなたの前に道を造りだしてくださるお方。それこそがイエス・キリストだと聖書は言うのです。
 二十歳になる少し前、私はまさに道に行き詰まっていました。どうやって生きていけば良いのか、全く分からなくなってしまったのです。自分のやりたいことがどうしても見つからない。生きていることの意味が全く見いだせない。何かをしようにも、あまりにも無力で惨めな自分という現実に打ちのめされるばかりでした。そして、夢や希望を全て見失ってしまったその時、私はとうとう神様にすがりつきました。「神様。こんな私を憐れんで下さい。どうやって生きていけば良いのか、もう分からないのです。神様、私はこのまま腐って朽ち果てていきそうです。どうか助けて下さい。あなたが喜んでくださる道を歩ませて下さい」。そうやって、それまでは頭だけで知っていた聖書の神様に真剣に祈り求めたのです。
 その後、イエス・キリストが私の前に確かに道を造り出して下さったことを私は証言します。人の能力や経験や頑張りではどうにもならないところに、イエス・キリストは確かに道を造り出してくださったのです。
 あなたは今、道に行き詰まってはおられませんか。自分が進むべき確かな道を探し求めてはおられませんか。もしそうであるなら、「あなたの前に道を備えて下さるお方」イエス・キリストに是非出会っていただきたいと願います。どうぞ、お近くのキリスト教会へお出かけ下さい。必ず、神様があなたの前に道を備えてくださいます。

帰って、知らせなさい


 あなたには、命の恩人と呼べる人がおありでしょうか。新約聖書マルコの福音書5章に、イエス・キリストによって絶望の淵から救い出された一人の男の物語が記されています。
 この人は、数え切れないほど多くの汚れた霊にとりつかれていました。結果、彼は墓場に住み着き、夜昼となく叫び続け、石で自分の体を傷つけていました。彼自身にも、周囲の人々にも、彼を救い出す力はなく、まさに絶望の底に沈んでいたと言えます。そんなある日、彼の前にイエス・キリストが現れます。キリストは彼から汚れた霊を追い出し、彼を絶望の淵から救い出されたと聖書は言います。そして、正気に返った彼にイエス・キリストはこう言われました。「あなたの家、あなたの家族のところに帰り、主があなたに、どんなに大きなことをしてくださったか、どんなにあわれんでくださったかを、知らせなさい」。そこで、彼は故郷に帰り、様々な悩みを抱える人々にイエス・キリストのことを伝え始めたと言います。
 汚れた霊ではなくとも、私たちもまた、様々な力に縛られ、絶望の淵に立たされるということがあります。ある人はギャンブル、ある人はお酒、またある人は妬みや憎しみに支配され、自分の力ではもはやどうすることもできないような状況に置かれることがあります。 じつは私自身、かつてそんな力に縛られ、生きる希望を見失っていました。自分をコントロールすることができず、人も自分も傷つけ、夢も希望も失い彷徨っていました。しかし、私もまた、イエス・キリストと出会い、イエス・キリストによって絶望の淵から救い出していただきました。自分にも周囲の人々にもどうすることもできなかった状況が、そして私自身が、イエス・キリストのことば、聖書のことばによって、実際に変えられていったのです。
 たとえそれがどんな力であったとしても、イエス・キリストはあなたを救い出すことができます。人に蔑まれ疎んじられているどんな人でも、イエス・キリストは愛し、救い出して下さいます。イエス・キリストがあなたにどんなに大きなことをしてくださろうとしているのか、どんなにあわれもうとしていてくださるのか。あなたにも、聖書を通して是非知っていただきたいと思います。

人生最大の驚き -はじめに、神が-


 私の人生最大の驚き。
それは、「私は神様に愛されている」という驚きです。

 神様の驚くべき愛。
それは、聖書の最初の部分、創世記一章に はっきりと示されています。
創世記一章は、「はじめに、神が天と地を創造した」という言葉で始まります。そして、神様がどのようにしてこの世界を造られたのか、ということが続けて語られるのです。

 創世記一章に示されている神様の知恵と力。天地万物を創造したその知恵と力には勿論驚かされます。しかし、私がそれ以上に驚かされるのは、そこに示されている神様の愛、私たち人間に対する神様の御愛です。
神様がこの世界を造られた時、神様は最後の最後に人間をお造りになった、と聖書は言います。
 人が生きるために必要な一切のものを、神様は人のために予め用意して下さったのです。
 たまたま最後に人が造られたのではありません。人を造り、人を生かすためにこそ神様はこの世界のすべてを造られた。聖書はそう教えているのです。

 それは丁度、愛に満ちた親が生まれてくる子どものためにすべてを準備することに似ていると言えます。
 やがて生まれてくる子どものことを思いながら、暖かな布団を用意し、幾つもの着替えを用意し、喜びと期待に満ちて出来る限りの準備をする。そんな親の愛に、神様の愛は似ていると思うのです。

神様は、人が存在するその前からすでに人を愛しておられた。そして、人を造り、人を生かすためにこそこの世界を造られた。
創世記一章に示された神様の愛、私たち人間に対するあまりにも大きな御愛に、私は心から驚かされるのです。

 「なぜこの世界は存在しているのか。私は何のために生きているのか」。この問いに対する答えが分からなかった時、私の人生は目的地も持たずに彷徨う苦しい旅のようでした。しかし、今は違います。天地万物を造られた神が人をこれほどまでに愛していてくださる。神は私のような者をさえ愛し、私が神を愛して生きることを願っていてくださる。
「私は神様に愛されている」。そのことを知った今、私の人生は喜ばしい驚きで満ちているのです。
 「あなたは神様に愛されている」。この人生最大の喜ばしい驚きを、あなたにも知っていただきたいと願います。

あなたは、どこにいるのか


 創世記3章9節にこんなことばがあります。
「神である主は、人に呼びかけ、彼に仰せられた。『あなたは、どこにいるのか」」。

 「あなたはどこにいるのか」。これは、神様に造られた人間が神様に背いて、神様から離れて生きるようになってしまった、その直後に語られたことばです。この創世記の最初の2章には、神様が人をお造りになったときの出来事が記されています。神様は、愛の限りを尽くして私たち人間をお造りくださった。聖書はそのことを私たちに伝えています。

 にもかかわらず、私たち人間は、その神様の愛を無視し、神様に背いて神様から離れて生きるようになってしまった。聖書はそう教えています。もし私が神様の立場であったとすれば、愛を踏みにじって神を無視して生きようとする人間を赦すことができるだろうか、と思わされるのです。怒りを覚え、もう関わりを持ちたくないと思ったのではないかと思います。しかし聖書は言います。「神である主は、人に呼びかけ、彼に仰せられた。『あなたは、どこにいるのか」」。神様は人間を怒って突き放そうとはしておられない。いやむしろ、その愛を踏みにじられても尚人を愛し、人との交わりを取り戻すことを切に願っていてくださる。神様の限りない愛が、このことばに示されています。

 「あなたはどこにいるのか」。あなたと神様との関係はどのようなものでしょうか。あなたはいつのまにか、神様から遠く離れて生きてしまってはいないでしょうか。神様は、あなたが神様と共に生きるようになることを今も切に願い、待ち続けていて下さいます。

 どうすれば神様のもとに帰ることができるのか。それは、あなたを愛し、あなたを待ち望んでいてくださる神様の語りかけ、聖書のことばに耳を傾けて生きることです。

 聖書に記されている神様のことば、その呼びかけに耳を傾けながら、神様と共に生きる幸いな生き方をしてみてはいかがでしょうか。

いつまでですか


 旧約聖書詩篇13篇1節にこんな言葉があります。「主よ。いつまでですか。」

 「いつまでですか」。人生には時に、そのように嘆かざるを得ない苦しみや悲しみがあります。

 詩篇13篇において、ダビデは4度もこの嘆きを繰り返しています。長期に渡る耐え難い苦難が彼を苦しめていたものと思われます。しかし、彼はその絶望的な状況の中でも希望を失うことはありませんでした。「主よ。いつまでですか」。彼にはそう呼びかけることのできる神様がいたのです。神様は、神様の目に一番良いときに、自分を必ず助け出して下さる。ダビデはそのことを確信していたのです。

私たちは、「待つ」ということの大切さを忘れてしまいやすい者です。あらゆる物と情報がすぐに手に入る時代になりました。しかしその結果、「待つ」という大切なことを私たちは忘れてしまいやすくなったのではないかと思うのです。

 困難に耐えることでしか身につけることができない大切ものがあります。そして、私たちを深く愛していてくださる神様は、時に私たちに「待つ」ことを求められます。「いつまでですか」と嘆かざるを得ない苦難の中で、大切な事柄を学ぶ者たちでありたいと願います。「いつまでですか」と嘆かざるを得ない苦しみの中で、主である神様を信頼することの幸いに目が開かれていく者たちでありたいと願うのです。


 神は沈黙し、助けの御手をすぐに伸ばしてくださらない。そう感じられる時があります。しかし、そこには私たちを愛し養おうとしてくださる神様の深い御配慮と愛があることを、忘れないで頂きたいと思うのです。

 「いつまでですか」。そう嘆かざるを得ない苦しみや悲しみの中で、あなたは何を見つめ、何に希望を置いておられるでしょうか。神様を信頼し、神様に救いを呼び求める者に、神様は必ず答えて下さいます。どうぞ、聖書を開き、「主よ」と呼びかける幸いな人生を歩んで下さい。