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ショートメッセージ集

聖書にあまり馴染みのない方々を対象に語られたメッセージです。
最上段左端が最近のメッセージであり、最下段右端が最初のメッセージです。

神はなぜ苦しみをお許しになるのか

PHAAQ013.JPG「神はなぜ苦しみをお許しになるのか」ルカ13:1-5

ルカの福音書13章1-5節

13:1 ちょうどそのとき、ある人たちがやって来て、イエスに報告した。ピラトがガリラヤ人たちの血をガリラヤ人たちのささげるいけにえに混ぜたというのである。
13:2 イエスは彼らに答えて言われた。「そのガリラヤ人たちがそのような災難を受けたから、ほかのどのガリラヤ人よりも罪深い人たちだったとでも思うのですか。
13:3 そうではない。わたしはあなたがたに言います。あなたがたも悔い改めないなら、みな同じように滅びます。
13:4 また、シロアムの塔が倒れ落ちて死んだあの十八人は、エルサレムに住んでいるだれよりも罪深い人たちだったとでも思うのですか。
13:5 そうではない。わたしはあなたがたに言います。あなたがたも悔い改めないなら、みな同じように滅びます。」



 2008年5月12日に中国四川省を襲った大規模地震による死者の数は1万5千人を超えると言われています(同14日現在)。また、5月2日にミャンマーを襲ったサイクロンによる死者数は3万4千人と報告されています(同14日現在)。このような近年の大規模自然災害による被害は私たち人間の想像をはるかに超えており、その規模と件数は今後さらに増加するものと見られ、私たちに難しい問題を突きつけています。

なぜ神は苦しみをお許しになるのか

 このような惨状を知らされるとき、私たちは「もし神が存在するのならば、なぜこのような苦しみをお許しになるのか」と考えることがあります。そして、多くの人々がこの問いに対する明確な答えを見いだすことができずに、「結局は神など存在していない」、「たとえ神が存在しているとしても、神は人を愛してなどいない」、「神には何かを行ったり留めたりするだけの力などない」と結論づけ、神を正しく信じることを拒むのではないかと思うのです。
 神は存在しておられないのでしょうか。神は人を愛しておられないのでしょうか。神は全能のお方ではないのでしょうか。この三つの問いかけに対して、聖書は次のように答えています。

①神の存在について:

 結論から言えば、聖書は神の存在を何よりも確かなこととして証言しています。実際、もし神が存在しておられないのであれば、私たちは存在する全てのものを偶然の積み重ねとして理解せざるを得なくなります。そして、すべての実存にはに何の意味も目的もないと結論づけなければならないのではないかと思うのです。そのように考える時、先に述べたような惨状を悲しんだり、その災害の意味を求めて悩んだりすること自体に意味がないということになってしまいます。もし神が存在しておられないならば、人の命にどれほどの尊厳を認めることができ、その死にどれほどの意味を認めることができると言うのでしょうか。もし神が存在しておられないならば、すべての災害は単なる偶然の結果であり、その意味を考えることもまた意味のない行為になってしまうと言わざるを得ないのではないかと思うのです。

②神の愛について:

 神は人を愛しておられる。それが聖書の根底に流れる最も大切な使信です。神は人を愛しておられ、人が誰一人として滅びることを願っておられないと聖書は教えています(Ⅱペテロ3:9)。そして、人を愛し、人の真の幸いを求める神の熱心は、時に私たち人間の想像をはるかに超えるものであり、聖書読者を驚かせます。神の御子が天を離れて人としてこの地上に来られたこと、罪のないその神の御子が人を救うために罪人の身代わりとして十字架の上にいのちを捧げられたこと。これらの神の行為は人に対する神の限りない愛を証ししています。神は人を愛しておられる。それが聖書の使信です。

③神の力について:

 聖書は、神が全能者であることを明確に教えています。天地万物を創造し、被造物のすべてを統べ治めておられるのは他でもないこの神であると聖書は教えているのです。人に喜びと感動を与える出来事であっても、人の目には受け入れがたい惨事であっても、すべてのことは神の許しがなければ起こりえないということを聖書は教えています。たとえそれが殺人や人為的な事故であったとしても、それらでさえ神のご支配を離れて行われることはないというのが聖書の教えです。神は全能者であり、神にとって不可能なことはない。それが聖書の教えです。

 それでは、もし神が存在しておられ、その神が愛の神にして全能の神であられるのならば、なぜ神は苦しみをお許しになるのでしょうか。この問いに対してイエス様は明確に答えておられます。

悔い改めることの重要性

 ルカの福音書13章でイエス様のもとにもたらされた報告は、礼拝中のユダヤ人がローマ人為政者によって理不尽な虐殺にあったというものでした。この出来事は、人が到底受け入れることの出来ない惨事であったと言えます。人の目には受け入れがたい悲劇が起こったことに対して、イエス様はどのように応答されたのでしょうか。「わたしはあなたがたに言います。あなたがたも悔い改めないなら、みな同じように滅びます」。イエス様は、はっきりと、2度そのように繰り返されました。災害に遭った人々は災害に遭わなかった人々よりも罪深かったからそのような災害に遭ったというような因果応報の考えをはっきりと否定した上で、悔い改めることの重要性をイエス様は教えられたのでした。
 人は、いつどのような形で地上の生涯を終えることになるのかを知りません。思いもよらない時におもいもかけない事によって死ななければならないということもあるのです。「私だけは大丈夫」などという考えは、あまりにも楽観的であり思慮に欠けたものだと言わざるを得ないでしょう。だからこそ、この地上で生かされているうちに神の御前で悔い改め、神の赦しと救いを受け取る必要があるのだとイエス様は教えられたのです。
 全米柔道チャンピオンになったあるクリスチャンの話を伺ったことがあります。「柔道では、まず最初に投げられることの備えとして受身を徹底して学ぶ。それは、投げられる備えが出来ていない者は決して投げることなど出来ないからだ。同様に、人生においても、まず最初に死ぬことの備えをしっかりとしておかなければならない。なぜなら、死の備えの出来ていない者が本当の意味で生きることなどできないからだ。私にとって、死の備えをし、本当の意味で生きるということはイエス・キリストの救いを受け取ることだ」。確かに、イエス様も同様の教えを語っておられることが分かります。イエス様は、人がどのような時にどのような形で死ぬかということには言及しませんでした。すなわち、人がいつどのような形で死ぬのかということにはお答えに鳴りませんでした。しかし、地上の死が「滅び」につながるものとなるのか、それとも「永遠のいのち」につながるものとなるのか、そのことによく注意していなさいと教えられました。そして、人がもし悔い改めて神様の赦しを受け取るならば、地上における死は「滅び」ではなく「永遠のいのち」につながるものとなると教えられたのです。
 「なぜ神は苦しみをお許しになるのか」。この問いに対して聖書は私たちが納得するような明確な答えを与えていないかもしれません。しかし、私たちがどのようにして苦しみに備えるべきであるかということは明確に教えています。やがて必ず訪れる死に対して、悔い改めて永遠のいのちを得ることによって備えていなさいと聖書は教えているのです。


本当の自分

PHAAQ013.JPG「本当の自分」詩篇15篇1,2節

詩篇 15篇 1,2節
「主よ。だれが、あなたの幕屋に宿るのでしょうか。
だれが、あなたの聖なる山に住むのでしょうか。
正しく歩み、義を行い、心の中の真実を語る人。・・・」

 「あなたはどんな人ですか」。こんな問いかけを受けた時、皆さんはどうお答えになりますか。そして、皆さんが思い描いている自分像と「本当の自分」は果たして同じでしょうか。

 上掲の御言葉の最初の2行は、「誰が神様と共に歩むことができるのでしょうか」という問いかけです。その問いかけに対して、明確な答えが2節以降に続きます。詩篇記者はこれ以降、この2節も含めて非常に具体的な事柄をもって、神と共に歩む者は実際にこういう生き方をしているべきだと教えています。イエス・キリストはある時、こんな言葉を語られました。「わたしに向かって、『主よ、主よ。』と言う者がみな天の御国にはいるのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行なう者がはいるのです」(マタイの福音書7章21節)これらの聖書の言葉から教えられるのは、本当の自分はその実際の生活に具体的に表れているということです。自分に対してどのような考えを持ち、自分についてどのようなことを言っていたとしても、実際の生活そのものがその人の本当の姿を映し出しているのではないでしょうか。

 私は10代後半の頃、自分に対して幻想を抱いていました。「本当はやれば出来る」、「本当は人の役に立つことができる」、「本当は・・・」。しかし、私の毎日の実際の生活はあまりにも自堕落で思慮に欠け、親と周囲の人々に迷惑をかけつづけ、人と自分を傷つけてばかりのものでした。「本当は・・・」という自分に対する希望はある意味で間違っていなかったのかも知れません。人には誰でもそれぞれに長所や美徳があり、それが発揮されていないだけだということがあるのだと思います。しかし、自分が思い描いている自分と「本当の自分」が実は随分とかけ離れていること、そしてそれ故に実際の歩みに力がなく、空回りばかりしているということもあるのだと思うのです。私の場合、ある時に「本当の自分」に気付かされる体験をしました。私が気付かされた「本当の自分」は、夢や希望や秘められた長所に満ちた自分ではなく、自分で自分をどうすることもできない無力で罪深い自分でした。聖書の御言葉によってそのような自分に深く気付かされ、絶望とも言える苦しみを味わいました。しかし、聖書によって示されたそんな「本当の自分」こそが、私の実際の生活と完全に合致するものであったので、私は「本当の自分」がそういう弱く罪深い者であるということを受け入れざるを得ませんでした。しかし、私の人生はその時から大きく変わることになりました。理想や幻想ではなく「本当の自分」に気付かされたからこそ、その自分がしなければならないこと、その自分に出来ることを少しずつ、しかし着実に行うことができるようになっていきました。「本当の自分」に気付かされることは時に大変な痛みを伴いますが、それは「本当の自分」としてしっかりと生きていくために、どうしても必要なことではないかと思うのです。

 さて、詩篇15篇に戻りますが、一体誰が神様と共に歩むことができるのでしょうか。もし、この詩篇が言うような清廉潔白にして品行方正な完全な人だけが神様と共に歩むことができるのだとしたら、私たち人間に希望はありません。なぜなら、私たちの「本当の自分」は、善だけではなく時には悪をも好み、人を愛するだけではなく人を憎み卑しめることをも願う性質を持っているからです。神様と共に歩むために完全な義が私たちに求められるのであれば、私たちに希望はありません。しかし、神様はそんな私たちが神様と共に歩むことを何よりも切に願って下さいました。そして、完全な義を持たないそんな私たちのために、この地上で唯一完全な義を貫いた神の御子イエス・キリストを十字架にお与え下さったのでした。それは、何の罪もないこのお方を私たちの身代わりとして十字架につけることによって、私たち罪人に神様からの赦しを得させるためでした。完全な義を貫いたお方が私たちの身代わりとして十字架で死んで下さった。それ故に、私たちは「本当の自分」のままで神様に受け入れていただくことができるのだと聖書は教えています。そればかりではなく、十字架の死によって私たちの救いを完成して下さったイエス・キリストがその三日後に復活し今も生きておられるので、このお方の助けによって私たちはこの義なるお方に似る者として、少しずつ変えられていく希望が与えられているのだと聖書は教えます。私たちは、「本当の自分のままで」、しかし少しずつイエス・キリストに似た者として変えられながら、神と共に歩む者となることが出来ると聖書は約束しているのです。

 聖書の御言葉によって「本当の自分」に気付かされた時、私は自分自身に絶望しました。しかし、それと同時に、そんな私のために十字架にまでかかって下さったイエス・キリストの救いとこのお方の愛に新しい希望を見いだすようになりました。「あなたはどんな人ですか」。この問いかけに対して私は、次のように答えさせていただきたいと思います。 「私は自分で自分をどうすることもできない無力な罪人です。そして実際に罪を犯してしまう者です。しかし、そんな私ですが、私は神様に愛され、赦され、神様と共に歩むことが許された者とされました。それ故、神様と共に歩むことが出来ることを喜び感謝しつつ、ただ神様と共に歩む者でありたいと願っています。」
「あなたは、どんな人ですか。」

主よ。いつまでですか。

PHAAQ013.JPG「主よ。いつまでですか。」詩篇13篇1節


「主よ。いつまでですか。」
詩篇 13篇 1節


 「いつまでですか」。人生には時に、そのように嘆かざるを得ない苦しみや悲しみがあるのではないでしょうか。そんな時、私たちはその苦難の背後にある本質的な問題を知り、その苦難の目的を悟ることが大切ではないかと思うのです。本質的な問題を知ることでその苦難に対処する術を知り、その苦難の目的を知ることで希望を持つことができるのではないかと思うからです。

 「主よ。いつまでですか」。詩篇13篇において、ダビデは4度もこの嘆きを繰り返しています。長期に渡る耐え難い苦難が彼を苦しめていたものと思われます。しかし、彼はその絶望的な状況の中でも完全に希望を失うことはありませんでした。それは、彼が自分の体験している苦難の本質的な問題を知っていたからです。主が沈黙しておられること、主が助けの御手を伸ばして下さらないこと。ダビデにとって、問題の本質は目の前の苦難そのものではなく、主が沈黙を続け、助けの御手を伸ばして下さらないことにありました。それ故に、彼は問題の本質から目をそらすことなく、「主よ」と祈り続けたのです。

 「いつまでですか」と嘆かざるを得ない苦しみを体験するとき、私たちは問題の本質を正しく知る必要があります。本質的な問題を知ることがなければそれを改善することが出来ず、いつまでも枝葉の部分の対処に追われることになるからです。良い根が良い実を結び、悪い根が悪い実を結ぶように、問題の本質は枝葉ではなくより根本的なところにあります。様々な問題、苦難と直面する際、問題の本質に目が向けられ、その部分における改善がなされなければなりません。そして聖書は、すべての人にとって最も根本的な問題は、その人と神との関係にあるということを一貫して教えています。たとえ目に見える状況が困難に満ちたものであっても、神が共にいてくださり、御声を聞かせて下さるのであれば、そこには深い平安と確かな希望があることを聖書は約束しています。

 ダビデは、目の前の苦難そのものではなく、その背後におられる神に目を留め続け、主に向かって祈り続けました。そして、彼は自分が体験していた苦難の意味と目的を悟るようになりました。
「私は主に歌を歌います。主が私を豊かにあしらわれたゆえ。」詩篇13篇6節
主が沈黙を守り、助けの御手を伸ばして下さらないことの故にダビデは苦しみました。しかし、彼はその祈りの最後に、それも主の豊かな取り扱いであったということを悟るに至りました。もし全ての問題が安易に即座に解決されていたとしたら、ダビデは本当に大切な神ご自身に目を向けることができなかったでしょう。そして、短絡的な成功はいずれ高慢と奢りを助長し、身の破滅を招いたものと思われます。しかし、主が沈黙を守り、本当に必要な時まで御手を差し控えて下さったが故に、ダビデは本当に大切な神ご自身に目を留め続けることができ、主の深いご配慮と愛に気付かされ、人として大きく成長させられたのでした。そして、それはダビデにとって本当に幸いなことでした。

 現代の日本は、「待つ」ということをあまりにも忘れてしまったのではないかと思わされます。インスタント食品やファーストフードにはじまり、携帯電話やメールやインターネットによってあらゆるものと情報が即時に手に入るようになりました。 しかしその結果、人々は全ての願いが即時に、そして簡単に叶えられるべきだと考えるようになり、困難に耐えることでしか身につけることができない大切ものを失いつつあるのではないかと思うのです。「いつまでですか」と嘆かざるを得ない苦難を、単なる邪魔な障害として理解し、そこから大切な事柄を学ぼうとしないのであれば、その苦難と苦しみの体験は全く意味のない無駄なものになってしまいます。私たちは、「いつまでですか」と嘆かざるを得ない苦しみの中でこそ、本当に大切なものに目が開かれていくという恵みを大切に覚えておきたいと思うのです。神が沈黙し、助けの御手を伸ばされないとき、そこには人知を越えた深い御配慮と愛があることを聖書は教えています。
 「いつまでですか」と嘆かざるを得ない苦しみや悲しみの中で、あなたは何を見つめ、何に希望を置かれるでしょうか。

人生の拠り所

PHAAQ013.JPG「人生の拠り所」詩篇11篇3節


「拠り所がこわされたら正しい者に何ができようか。」
詩篇 11篇 3節


  みなさんの「人生の拠り所」はどこにあるでしょうか。社会生活において、家庭生活において、子供との関わりにおいて、みなさんの「善悪の判断の基準」はどこにあるでしょうか。そして、もし、自分が正しいと信じていたことがないがしろにされ、自分が悪だと思っていたことが大手を振って横行するようなことになったら、皆さんの「拠り所」は揺るぐことなくそこにあり続けることができるでしょうか。

 上掲の詩篇の御言葉は、ダビデ王に対してその友人が語った絶望混じりの助言です。ダビデ王は紀元前1000年頃にイスラエルの王となった人物ですが、その即位の前の数年間、彼は先王であったサウル王によって謂われない苦境に立たされました。神様を愛し、神様に従って正しいことを行い続けるダビデに対して、神様に背き続けるサウル王が深い嫉妬心を燃やし、法も正義もないがしろにしてダビデの命をつけねらったのでした。そのような理不尽な苦しみに遭わされながらも悪に手を染めず神の前に正しい者でありつづけようとしたダビデに対して、「拠り所がこわされたら正しい者に何ができようか」と友人たちは嘆いたのです。

 正しいと信じていた基準が全く通用しなくなり、間違っていると信じていた事柄が常識のようにして横行するとき、私たちは「拠り所がこわされた」と感じるのかも知れません。安心して食べられるはずのスーパーの食品に毒が混ざり、当然受け取ることができるはずの年金が役人にかすめ取られ、国民の生活を守るべき政治家が私利私欲に走って国政をないがしろにする。正義を執行するべき警察が悪に手を染め、万人の幸福を平等に保証するはずの法の番人が弱い者を虐げる。そんな時代がすでに来ていることを私たちは否応なしに知らされています。また、裏切るはずのない夫婦や友人が互いに裏切り、相互の幸福を願って愛し合い敬い合うべき親子が憎しみ合って命を奪い合う。そんな社会の中に私たちは生かされています。正直者が報われず、正しい生き方が愚かだと笑われる。人類の歴史には、「拠り所がこわされたら正しい者に何ができようか」と嘆かざるを得ない現実が常にあることを思わされます。

 しかし、そんな世の常を示す先の絶望混じりの助言に対して、ダビデは次のように答えました。
「主に私は身を避ける。」(詩篇11篇1節)
「主は正しく、正義を愛される。直ぐな人は、御顔を仰ぎ見る。」(詩篇11篇7節)
人の目には絶対絶望の苦境に立たされても尚、彼は神様だけを「拠り所」とし、神様を信頼する道を選びました。たとえ他の人々が正義をないがしろにし、社会全体に悪が横行しているとしても、彼は神様に従って「正しい者」として生きる道を選んだのです。その理由について彼は、「主は正しく、正義を愛される」からだと告白しています。善悪の基準は時の為政者や社会にあるのではなく、自分自身にあるのでもないということ。善悪を常に正しく判断しておられるのは神様だけだということを彼は信じていました。そして、「正義を愛される」神様を愛する彼は、聖書に示されている神様の教えに従って生きる道を選んだのでした。その結果、ダビデの歩みは最後まで神様に守られ、大きな祝福を受けることとなりました。反対に、その時々の感情や社会情勢や損得勘定によって神様の教えをないがしろにしたサウル王は、非業の最期を迎えることになりました。

 私たちの「人生の拠り所」をどこに置くべきか。何を揺るぐことのない「善悪の基準」とすべきか。自分の歩みのすべてを決定づける大切な事柄として、改めてしっかりと考える必要があるのではないかと思います。そして、神様を「拠り所」とするのか、あるいはそれ以外のものを「拠り所」とするのか。そのことが最終的に私たちに問われているのではないかと思うのです。
 みなさんは「人生の拠り所」をどこに置いておられるでしょうか。

空の空

PHAAQ013.JPG「空の空」伝道者の書1章2,3節

「空の空。すべては空。日の下で、どんなに労苦しても、それが人に何の益になろう。」
伝道者の書1章 2,3節



「伝道者の書」は伝統的にソロモン王の著作だと考えられている。聖書によれば、彼はそれまで存在した誰よりも知恵に優れ、あらゆる成功と繁栄を手にした人物である。その彼の格言、生きるための知恵を集めたのが「伝道者の書」である。
 「人の歩み」とは何であろうか。「伝道者の書」はその冒頭で、日の下における人の歩みは「空の空」にしか過ぎないと結論づけている。「空」とは「息」とも訳される言葉で、儚さや意味のなさを示す言葉である。たとえどれだけの知恵と成功と名声を手に入れたとしても、日の下における人の歩みはあまりにも儚く、あまりにも無意味だと伝道者は告白しているのである。その結論の最も根本的な理由として、彼は「死」について幾度も述べている。


事実、知恵ある者も愚かな者も、いつまでも記憶されることはない。日がたつと、いっさいは忘れられてしまう。知恵ある者も愚かな者とともに死んでいなくなる。(2:16)

母の胎から出て来たときのように、また裸でもとの所に帰る。彼は、自分の労苦によって得たものを、何一つ手に携えて行くことができない。(5:15)

風を支配し、風を止めることのできる人はいない。死の日も支配することはできない。この戦いから放免される者はいない。悪は悪の所有者を救いえない。(8:8)


 確かに、人はどれだけの知恵と名声と成功を手に入れても、死をもってその全てを手放さなければならない。誰一人としてその事実から逃れることは出来ないのである。
 死者6300人を出した阪神淡路大震災から今日で13年が経つ。「ほんまに大切なもんはお金やないで。ええ学校でも大きな家でもないで。見てみぃ。そんなもんはたった数十秒の地震で全部なくなってしもうた。」避難所で聞いた男性の嘆きを改めて覚えさせられる。確かに、人はどれだけ努力して良い学校に入り、良い会社に入り、大きな家と財産を築いても、やがてそれら全てを失う日が来ることを覚えておかなければならない。

 伝道者はその事実をよく見つめ、真剣にその事実を受け止めたが故に、日の下における人の歩みは「空の空」だと教えているのである。そしてこの結論は、「伝道者の書」のみならず、多くの知恵文学が最終的にたどり着く結論でもある。
 しかし、伝道者が「空の空」であると言っているのは「日の下」の歩みであるということに十分に注目する必要がある。伝道者の書は、「日の下」「天の下」「地上」という言葉を多用(35回)することによって、地上での歩みの儚さということを強調しているが、これらの言葉によって本当に強調されているのは「天におられる神」と「天における永遠の歩み」であるという点は非常に重要である。「伝道者の書」は、悲観主義に根差して「虚無主義」を教える書であると考えられることもある。しかし、実は伝道者は「日の下」における歩みが「空の空」でしかないという事実を強調することによって、「天の神」と「天における永遠の歩み」に目を留めて生きるようにと読者を教えているのである。「伝道者の書」は、死と死後の審判という事実を正しく認識して受け止めた上で「真の希望」に読者の視点を誘い、その希望に根差した確かな歩みを勧める書であることを覚えたい。


若い男よ。若いうちに楽しめ。若い日にあなたの心を喜ばせよ。あなたの心のおもむくまま、あなたの目の望むままに歩め。しかし、これらすべての事において、あなたは神のさばきを受けることを知っておけ。(11:9)

あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。わざわいの日が来ないうちに、また「何の喜びもない」と言う年月が近づく前に。(12:1)

結局のところ、もうすべてが聞かされていることだ。神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとってすべてである。神は、善であれ悪であれ、すべての隠れたことについて、すべてのわざをさばかれるからだ。(12:13,14)

「空の空」ではない「真の希望」に満ちた歩みをする秘訣。それは、永遠に変わることのない天の神と共に歩むことである。「日の下」で神と共に歩む者は、死を経ても尚、永遠に神と共に歩む者とされることを覚えて歩みたい。



闇に輝く光

PHAAQ013.JPG「闇に輝く光」ヨハネの福音書1章5,9節(クリスマスメッセージ)


「光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった」
「すべての人を照らすそのまことの光が世に来ようとしていた。」
ヨハネによる福音書1章5,9節

 マタイの福音書やルカの福音書が「クリスマスの出来事」(イエス・キリストの降誕物語)を記しているのとは異なり、ヨハネの福音書は「クリスマスの意味」を宣言している。「闇に輝く光の到来」。それこそが聖書が示すクリスマスの意味である。

 クリスマスが近づき、町が騒がしくなりつつある。昼のように明るいイルミネーション、豪華な食事、高価なプレゼントと賑やかなパーティー。日本人が自分の幸福を増し加えるという目的のためにクリスマスを過ごすようになってすでに久しい。  しかし、世界で最初のクリスマスが、その様子においても、その意味や目的においても、現代のそのようなクリスマスとは全く異なっていたことに改めて目を留めたい。

 今から約二千年前、ユダヤの町ベツレヘムで、イエス・キリストはつつましく静かにお生まれになった。神のひとり子が静かに眠ったのは、王宮の豪華なベッドではなく、馬小屋の片隅の飼葉桶の中であった。その誕生を祝ったのは、宮殿にはべる大勢の家来たちではなく貧しく弱い人々であった。多くの人々は自分の幸福を増し加えることにあまりにも忙しく、神の御子がこの世に来られたことなどには全く目を留めようとしなかった。

 自分が幸福であると考え、その幸福を増し加えることばかりに目を留める人々にとって、クリスマスの本当の喜びは見いだし難い。なぜなら、闇に光りをもたらすためにこの世に来られたイエス・キリストは、自分が闇の中にいることを認めようとしない人々にとって、特別に感謝すべき存在だとは思われないからである。悩み苦しむ人々に真の慰めと平安を与えるためにこの世に来られたイエス・キリストは、自分が貧しい存在であることを認めようとしない人々にとって、必要な存在だとは思われないからである。光の到来を真に感謝し、その慰めと平安を真に喜び祝うことができるのは、自分が闇の中にいる貧しい者であることを知っている者たちだけである。光が到来しなければ闇に打ち勝つことができないことを知っている者たちだけが、神の御子イエス・キリストのその御降誕を真に喜び祝うことができるのである。

 現代の日本は、科学技術が発展し、ありあまるほどの物に溢れている。あとは、今獲得している幸福を増し加えるだけで良いように思われる。しかし、その日本と日本人を覆う「闇」が益々深く濃くなりつつあることを感じずにはいられない。希望に満ち溢れているはずの現代日本人の心に、虚無感や絶望という「闇」が見え隠れしている現実を無視してはならないと思うのである。人を覆い、人の内側に潜む「闇」について、筆者は阪神淡路大震災とその後の避難所生活を通して三つのことを教えられた。

 一つは「人は必ず死ななければならない」という「死の闇」である。この地上で何をどれだけ成したとしても、人は必ず死ななければならない。そしてそれは、永遠の闇を恐れる人間に絶望をもたらすのである。
 もう一つは、「信頼していたものに裏切られる」という「絶望の闇」である。私たちの多くは、富や知識や名誉、安定した生活と安定した人間関係を求めて生きている。そして、それに信頼して生きている。しかし、たった数十秒の地震によって、それらの目に見えるものは最終的に信頼するに足りないものであることが明らかにされた。目に見える物や人は、人を救うことができないのである。
 三つ目に教えられたのは、「自分の内に潜む罪」という「罪の闇」であった。どれだけ善を行おうとしても、厳然として自分の内側に暗く深い闇が存在することを悟らされたのである。人が真の意味で善を行えないということ、真の意味で人を愛することができないということに気付いたとき、筆者は非常に暗く深い絶望を覚えたのである。

 聖書は、人がこれらの「闇」の中にいることをやみくもに非難しているのではない。そうではなく、これらの「闇」が私たちを覆い、これらの「闇」が私たちの内側に存在していることを事実として告げた上で、その闇を切り裂き、その闇の中に輝く光が到来したことを告げているのである。人としてこの世に来て下さった神の御子イエス・キリストこそ「闇に輝く光」であるということ。それが聖書が示すクリスマスの意味であり、クリスマスの喜びである。

 私たちを覆い、私たちの内に潜むその闇が深く濃くなる前に、そして、やがて光を見つめることさえ出来ない闇に囚われるその前に、「闇に輝く光」を見つめていただきたい。そして、人としてこの世に来て下さった神の御子イエス・キリストを信じ、この光と共に歩む者となっていただきたい。

存在の意義

PHAAQ013.JPG「存在の意義」


 最近のギャラップの調査によれば、日本人の85%が「自分の存在の意義がわからない」、38%が「自分が他の人であればよかった」、と考えているそうです。

 人がその誕生から死ぬまでに歩む道は、決して常に平坦で楽なものではありません。人は皆、多くの幸いを喜び楽しむと共に、様々な困難や苦しみ、悲しみに耐えて生きなければなりません。そのような人生を歩む上で、もし本当に「自分の存在の意義がわからない」とすれば、「なぜ様々な困難に耐えなければならないのか」と悩み苦しむことはむしろ当然かもしれません。年間3万人以上が自殺し、人の命をあまりにも軽く見る風潮が蔓延している今の日本にとって、「存在の意義」を見つめ直すことは何よりも重要なことかもしれません。次の質問について考えてみて下さい。

1) 「存在の意義」を知ることは大切なことと思いますか。

2) 今までに「自分の存在の意義」についてよく考えたことがありますか。

3) あなたは「自分の存在の意義」を知っていますか。

4) 全ての人にとって普遍的な「存在の意義」というものがあると思いますか。

 聖書は、人間の「存在理由」と「存在意義」について明確に教えています。「人は神によって造られ、神との交わりのために造られた」。これこそが聖書が教える人間観です。人間は、進化論が言うように偶然の積み重ねによる偶然の産物などではなく、神がその愛と知恵と力を尽くして造ったかけがえのない特別な存在だと言うのです。そして、そのような存在として人間を造られた神と「共に歩む」ことこそが人間の「存在意義」であり「存在目的」だと言います。「神と共に歩む」とは、結婚にたとえることができるかもしれません。結婚の目的は二人の人が一組の夫婦として共に生きることを目的としているのであって、結婚式そのものが目的ではありません。神は人を造られましたが、その目的は造ることそのものではなく、神と人とが人格的な交わりを楽しみながら共に生きることにありました。

  「あなたは自分の存在の意義を知っていますか。」この問いかけをどのように受け止め、この問いかけにどのように答えるかということは、私たち人間にとって何よりも重要なことです。皆様はご自分の「存在意義」を知っていますか。

人が探し求めているもの

PHAAQ013.JPG「人が探し求めているもの」


 前回(「存在の意義」)、日本人の多くが「自分の存在の意義がわからない」と考えていることをお話しました。近年のあまりにも短絡的な数え切れない殺人、年間3万を超す自殺者数は、日本人のこのような人間観、人生観を物語っているのかもしれません。

 最近、「夜回り先生」と呼ばれる水谷修さんの著書をいくつか読みました。酒、ドラッグ、暴力、性の乱用に溺れて落ちていく若者のそのような非行行為は、彼らの抵抗だと水谷さんは言います。生きるための必死の抵抗なのだと言うのです。本当は、日の当たる世界で親と周囲の人々から愛され、その存在価値を認められ、正しく明るい人生を歩みたい。子どもたちは皆そう願っていると言うのです。しかし、愛されることも認められることもなかった子どもたちは、その心が優しければ優しいほど、正しければ正しいほど、暗闇に逃げ込むようになると水谷さんは言います。そんな子どもたちに対して、水谷さんは、「いいんだよ。過去のことは。」「今までよく生きてきてくれたね。生きてさえくれていればいいんだよ。」「何があっても私が一緒にいるからね。」と語り続けます。彼らの過去やどうしようもない現実を非難するのではなく、その存在そのものを慈しみ、尊び、その存在そのものを愛そうとします。そして、水谷さんのそのような姿勢は、子どもたちの心に真っ直ぐに伝わっています。それだけではなく、その存在を受容しようとする水谷さんの優しさは、彼らが人間としての尊厳と愛を取り戻すための大きな力となっています。「なぜ、そこまで出来るのですか」との問いに対して、水谷さん自身は答えます。子どもたちとの関わりを必要としている自分、それなしでは孤独に耐えられない自分がいると言うのです。彼もまた、うわべに惑わされない本当の交わりを求め、孤独と向き合いながら生きている人間だと言うことが出来るでしょう。

 人間は人との交わりを求める存在です。愛されることを求め、愛することを求めて生きる存在こそが人間なのです。愛されることにおいて満たされていない、あるいは満たされてこなかった人間は、愛することにおいてもまた満ち足りることが出来ません。それ故に、偽りの愛にさえすがりついて苦しむのです。また、人間は本来、美しいものや正しいことを喜び、それらを創り出し、そのように生きることを求めて生きる存在です。美術や音楽、文学作品を創り、それを楽しみ愛する人間の本質は、人間の本来の姿だと言えます。そしてそのような本質は、人間が神との交わりを目的として創造されたからだと聖書は言います。すなわち、愛であり美であり義である神を求める存在として人間が造られたからこそ、それらを求める本質が人間の内側に本来的に備わっているというのです。

 人間は、愛を求め、美を求め、義を求めて生きるように神によって造られた存在です。そして、そのような「良いもの」は、神の内にこそ完全に備わっているのであり、神との交わりを通してこそ体験することができます。しかし、神の存在を認めず、神に造られたことも認めない人々は、どこかに渇きを覚え続けて生きることになります。そして、「自分の存在の意義がわからない」故に、「隣人の存在の意義もわからない」ことに苦しみを覚えることになります。愛されることを求め、愛することを求めても、一番本質的なところで「なぜ人は存在しているのか。生きる本当の目的は何なのか」が分からないので、結局、自分自身との関わりにも、隣人との関わりにも、本質的な意義と目的を見つけることができなくなるのです。「存在意義の喪失」。これこそ、人を殺し、自らを殺し、どこまでも落ちていく人間の本質的な問題だと言えるのではないでしょうか。

 人は、「自分の存在の意義がわからない」ことによって苦しみ、「隣人の存在の意義もわからない」ことによって人を苦しめる存在です。今一度、「私という人間の存在意義」と「私の隣にいる人間の存在意義」ということについて、正面から考えてみたいと思います。そして、この問いに対して聖書を通して明確に答えていて下さる神ご自身の語りかけに耳を傾けたいと思います。

「人の望むものは、人の変わらぬ愛である」
聖書(箴言19章22節)

「人は神に向けて造られた。それ故、神の内に憩うまでは真の平安を得ないのである。」
アウグスティヌス


心の貧しい人は幸いです

PHAAQ013.JPG「心の貧しい人は幸いです」マタイの福音書5章3節


「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。」
マタイの福音書5章3節


 ある日、イエスは「心の貧しい者は幸いです」という言葉をもって教え始められた。「山上の教え」と呼ばれる一連の重要な教えの冒頭の言葉である。ここで使われている「貧しい(プトーコス)」という言葉は、日本語で連想されるところの「卑しい」という意味とは少し異なる。この言葉は、経済的な困窮状態を示す言葉としても使用されるが、原意としては「誰かの助けを必要としている者」、「誰かの助けを求めている者」という意味がある。

 私たちは自分をどのように理解しているだろうか。その理解は、大きく二つに分けることが出来よう。一つは、「私は誰の助けも必要としていない」という自己理解であり、もう一つは、 「私は誰かの助けを必要としている」という自己理解である。前者のように「私は誰の助けも必要としていない」と考えている者は少ないであろう。仮に、もしそのような理解で人生を歩む人がいるとすれば、それは孤独で寂しい人ではないだろうか。自分が助けを必要としており、多くの人に助けられ、多くの人に支えられて歩んでいることを知っているからこそ、人の必要に心を留めてそれに応じることができるのではないだろうか。そして、そのようにして人と共に生きることによって、人として支え合い、人として育まれていくのではないだろうか。「心の豊かな人」とは、そのように「私は誰かの助けを受けている者である」と理解している人ではないだろうか。
 一方、「私は誰かの助けを必要としている」と自分を理解するとき、そこには二つの要素が考えられる。一つは「どんな助けを必要としているのか」ということ、もう一つは「誰の助けを必要としているのか」ということである。「どんな助けを必要としているのか」ということについて言えば、そこには「経済的な必要」、「肉体的な必要」、「精神的な必要」など、様々な必要が考えられる。「誰の助けを必要としているのか」ということに関して言えば、「親の助け」、「伴侶の助け」、「子どもの助け」、「国の助け」、「地域の助け」、「医者の助け」など、実に様々な「助け手」が考えられる。いずれにせよ、私たちは「誰かの助けを必要としている者」であり、実際に様々な助けを受けている者たちだと言えよう。その意味に於いて、私たちはイエスが言われるように「貧しい者(助けを必要としている者)」だと言えよう。

 しかし、イエスが言われた「心の貧しい者」という言葉は、人やこの世の様々な制度では決して与えることのできない「特別な助け」を求めている者を意味している。それは、「神による」「神だけが与えることのできる助け」である。ここで言われている「貧しい者」とは、「神の助けを必要としている者」、「神の助けを求めている者」という意味である。「生きる」ということにおいて、「死ぬ」ということにおいて、自分自身でもなくこの世の人々でもなく、ただ神に助けを求める人々のことを、イエスは「幸いです」と言われたのである。なぜ、「神に助けを求める者」が「幸い」なのだろうか。その理由は、「天の御国はその人たちのものだから」と言われている。「天の御国」とは、「神の守り、神のご支配」という意味を持つ言葉である。すなわち、「神の助けを求める人々は、神の守りの下に生かされ、神の守りの下に死に、そして神と共に再び生きることができる」ということである。それこそが、他の何にも優って「幸いな生き方」だとイエスは言われたのである。

 私たちは実に様々な助けを必要としている。そして実際に、数え切れないほど多くの人々から数え切れないほど多くの助けを頂いて生かされている。そのことに、心から感謝し、他者の必要に応じて生きる者たちでなければならない。しかし、私たちは何よりも「神にしか満たすことができない必要」を自分が抱えているということを認めることは大切である。安定した衣食住が得られれば人は生きていけると考える者もあろう。「心の満たし」があれば神など必要ないと考える者もあろう。しかし、私たち人間には「神にしか満たすことのできない決定的な必要を抱えている」と聖書は教えている。そして、その「必要」は神にしか満たすことができず、その「必要」が満たされなければ、人はやがて決定的な「欠け」を持ったままこの世の生涯を終えて神の前に立たされるのである。自らが「神の前に貧しい者(神の助けを必要としている者)」であることを認め、喜んで助けて下さる神の助けを頂きながら感謝して生きる。すなわち、「神と共に歩む」ことこそが「幸いな歩み」だと聖書は教えるのである。

 自分の「貧しさ」を知った者だけが、その必要の満たしを真剣に探り求めることができる。「心の貧しい時代」と言われる現代において、私たちはまず自分の「貧しさ(助けを必要としている状態)」に気付くことが大切ではないだろうか。その上で、その「必要」を満たしてくださるお方から「助け」を頂いて生きる者たちでありたいと願わされる。

いつも見ている

PHAAQ013.JPG「いつも見ている」


自分の顔がいつも見えていたら 悪いことなんかできないだろう
自分の背中がいつも見えていたら 侘しくて涙が出てしまうだろう
あなたは 私の顔をいつも見ている 私の背中をいつも見ている
「背中 -ユキノシタ-」『なたの手のひら』p.16. 星野富弘


 私たちは案外「自分が見えていない」のではないでしょうか。また、「自分が見えていない」だけでなく「自分を見ていない」のではないでしょうか。たしかに、「自分が見えていない」「自分を見ていない」からこそ助かっていることは多くあります。あまりにも自分が見えていると、深い自己嫌悪に陥ってしまうかも知れません。しかし、「自分を見ていない」「自分が見えていない」からこそ生じている問題も多くあるのではないでしょうか。同じ過ちを繰り返してしまうことなどは、自分をよく理解していないことから生じる問題かもしれません。いずれにせよ、一度「自分」という人間をよく理解しておくことは大切です。たとえそれがどんな姿であるにせよ、私たちは自分自身を一生懸命に見つめ、自分の本当の姿をよく理解しておく必要があります。自分を幸せにし、隣人を幸せにするために、それは大切なことだと思うのです。

 しかし、「本当の自分」を知ることは意外に難しいことです。それは、冷静に、客観的に分析しようとする自分がどこまでも主観的な存在であり、時代や状況という様々な要素の中でしか自分を見ることが出来ない存在であるからです。どうすれば「本当の自分」を知ることが出来るのでしょうか。  このことについて、聖書はひとつの回答を示しています。それは、人間を造り、常に変わらない公正な目で人間を見ておられる神の目を通して自分を見ることです。人を造られた神は人を完全に知っておられるお方であり、私たちが自分で気付いていない心の奥底まで知っておられるお方です。それは丁度、子供のことをよく知っている親のようなものだと言えるかもしれません。


 主よ。あなたは私を探り、私を知っておられます。
 あなたこそは私のすわるのも、立つのも知っておられ、
 私の思いを遠くから読み取られます。
 あなたは私の歩みと私の伏すのを見守り、
 私の道をことごとく知っておられます。
 ことばが私の舌にのぼる前に、
 なんと主よ、あなたはそれをことごとく知っておられます。
 あなたは前から後ろから私を取り囲み、御手を私の上に置かれました。
 そのような知識は私にとってあまりにも不思議、あまりにも高くて、及びもつきません。
詩篇139篇1-6節

 ところで、神が私たちを完全に知っておられるというとき、私たちには二つの感情があるのではないかと思います。一つは、「安心」です。人に理解されないことは私たちにとって大きな苦しみです。しかし、たとえ誰も理解してくれていなくても、私の痛みや悲しみ、苦しみを神だけは知っていてくださる。あの事柄に関する私の正しい動機を、神だけは認めていてくださる。神が公正に自分を知っていて下さる。それは私たちにとって深い慰めです。しかし、神が私たちを完全に知っておられるというとき、私たちは同時に「恐れ」も感じるのではないでしょうか。行動にも言葉にもしていない心の中にある邪悪な思いを神が知っておられるとすればどうでしょうか。誰にも気付かれず、誰にも責められたことのないあの罪を、神が確かに知っておられるとすればどうでしょうか。私たちは誰でも、誰にも知られていない、誰にも知らせていない何らかの負い目を抱えて生きている者たちだと思うのです。

 それでは、私たちを完全に知っておられる神は、私たちをどのように見ておられるのでしょうか。断罪と非難という厳しい目で見ておられるのでしょうか。結論から言うならば、「神は愛をもって私たちを見つめておられる」と聖書は教えています。それは、私たちの内にある罪を無視して、何もなかったかのように振る舞われるということではありません。私たちの内にある暗い部分を私たち以上によく知っていながら、神はそれでも私たちを愛していて下さると言うのです。そして、私たちの「本当の姿」を知っている神だけが、私たちをふさわしく正し、私たちを良い方向へと適切に助け導くことができるのです。

 「本当の自分」を正しく知るために必要なことは何でしょうか。自分を正しく知り、悪いところを正し、良いところを伸ばし、その上で良い方向へと歩み続けるために、私たちは何を必要としているのでしょうか。それは、「神に背を向ける」ことを止め、「神の御顔を見る」ことだと聖書は教えます。すなわち、「神と真剣に向かい合うこと」、それこそが必要だと言うのです。 私たちを「いつも見ている」お方、愛をもって私たちを見つめ続け、私たちを誰よりもよく知っていて下さる神に目を向けること。「本当の自分」を知るために必要なのは、実は「本当の神」を知ることだと思うのです。


あなたの顔をいつも見ていたら 悪いことなんかしなくてもすむだろう
あなたといつも向かい合っていれば 嬉しくて笑顔になるだろう
あなたは 私の顔をいつも見ている

何よりも大切なもの

PHAAQ013.JPG「何よりも大切なもの」


 だから、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行う者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができます。雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけたが、それでも倒れませんでした。岩の上に建てられていたからです。
 また、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行わない者はみな、砂の上に自分の家を建てた愚かな人に比べることができます。雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけると、倒れてしまいました。しかもそれはひどい倒れ方でした。」
マタイの福音書7章24-27節

人は、たとい全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、何の得がありましょう。
そのいのちを買い戻すのには、人はいったい何を差し出せばよいでしょう。
マタイの福音書25章21節


 2007年7月16日午前10時13分、新潟県中越沖を震源とする強い地震があり、新潟県を中心に各地で震度6強の強い揺れが観測された。被害状況は7月19日現在、死者10人、負傷者1300人超、全壊家屋950超、避難者約5千人(一時1万2千人超)である。

 1995年の阪神淡路大震災の直後、神戸市東灘区にある本山第三小学校には5千人を超える被災者が避難生活を余儀なくされていた。本山第三小学校で3ヶ月余りのボランティア活動をする中で、私の心に今も鮮明に残る被災者の一言があった。「山中君、ほんまに大切なもんはお金やないで。大きな家でも地位でもないで。見てみぃ、そんなもんはたった二十秒の地震でみんななくなってしもうた。」深夜の小学校の校庭で、1月の寒空に虚ろな目でたき火を見つめていた多くの人たちの気持ちを、この言葉が代弁していたように思う。

 懸命に勉強して良い学校に入り、懸命に働いて手に入れたはずの仕事や家が目の前で崩れ去る時、多くの人はそれまで大切だと信じてきた事柄を見つめ直さざるを得なくなるであろう。まじめに学び、まじめに働くことは決して意味のないことではない。いや、むしろそれは本当に大切で、尊い生き方である。しかし、やがては失われていく儚いものに人生の土台を置き、それを最終的な目的として生きるなら、その歩みはやはり儚い歩みであると言わざるを得ないのではないだろうか。お金や家だけならばまだよい。しかし、愛する家族の命が、そして自分の命が失われるとき、私たちはそれまでの歩みをどのように見つめ直すのだろうか。

 イエス・キリストは、「岩の上に自分の家を建て」よと命じている。そしてそれは、何よりも大切な「まことのいのち」を大切にする生き方であると教えている。「たとい全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、何の得がありましょう。」

 「何よりも大切なもの」。それは人によって様々に異なるかもしれない。しかし、全ての人にとって、自分が「何よりも大切なもの」と考えているものを真剣に見つめ直すことは重要であろう。あなたにとっての「何よりも大切なもの」は、本当の「岩」としてあなたを受け止めることができるだろうか。目に見える全てのものが失われる時、あなたには何が残るだろうか。「遅すぎた」と言わざるを得なくなるその前に、真剣に見つめ直す機会を持っていただきたい。

いのちより大切なもの

PHAAQ013.JPG「いのちより大切なもの」


いのちが一番大切だと思っていたころ
生きるのが苦しかった

いのちより大切なものがあると知った日
生きているのが嬉しかった

星野富弘(「おだまき」,『鈴の鳴る道』p.80 )


イエスは言われた。
「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、
死んでも生きるのです。」

               ヨハネによる福音書11章25節


 上述の星野富弘氏の詩に添えて描かれた花は「おだまき」と言います。国語辞典によると、ミヤマオダマキが原種と考えられるこの花は、古くから観賞用に栽培されたもので、野生のものは知られていないと言います(広辞苑および小学館国語辞典)。おだまきは、人目につかない所で自力で咲き、人知れず枯れてゆく花ではなく、人の愛と手間を受け、大切に育てられ、その花を咲かせる花であることが分かります。自力ではなく、他者の愛を受けて咲く花。その点で、おだまきは「いのちより大切なもの」に目を向けさせてくれるのかもしれません。

 星野さんは、「いのちが一番大切だと思っていたころ」があったと言います。そして、やがては必ず朽ちていくその「いのち」がすべてであると考えていたが故に、「生きるのが苦しかった」と言うのです。確かに、やがては必ず朽ちていく「いのち」を一番大切だと考えるなら、私たちの人生は「いのち」の終焉と共に終わってしまうだけのものになります。そして、そのように考えるなら、人生における苦難と直面するとき、そこに大切な意味を見いだすことは非常に難しくなると言えるでしょう。あるいは、どれだけその人生を充実させたとしても、それは刹那のものでしかないと言えるのではないでしょうか。そして、「いのち」を失うことを恐れたり、「いのち」を失うことに言いようもない不安や喪失感を覚えたりするのではないでしょうか。あるいは、「どうせ死ぬのだから」と考え、自暴自棄になり、欲望の充足だけを求めて、他者を愛するために生きるという高次の生き方を無意味なことと考えるようになるのかもしれません。

 しかし、星野さんはある時、「いのちが一番大切だ」という考えが、自分の思いこみであったことに気づかされたと言います。それは、「いのちより大切なものがあると知った」からだと言いいます。それまでの仮定が、事実によって覆されたというのです。そして、「いのちより大切なもの」があるという事実を知ったその日から、「生きているのが嬉し」くなったと言うのです。「いのちより大切なもの」がある。星野さんはその事実を聖書によって知りました。

 聖書は、人が本当の意味で「生きる」ということは、「死なない」ということと必ずしも同じではないということを教えています。人が本当の意味で「生きる」ということは、「死なない」ということよりもはるかに大切で、意味のあることだと言うのです。イエス・キリストは言いました。「わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。」ここで用いられている「生きる」という動詞は、原語のギリシャ語では「生かされる」(「生きる」の中動態)というニュアンスを含んでいます。「わたしを信じる者は、死んでも神によって生かされるのです。」イエス・キリストのこの言葉から、3つの大切なことが教えられます。それは、①「死」というものでは終わらない「永遠のいのち」があること、②そのいのちは、「自力で生きるいのち」ではなく、「神によって生かされるいのち」であること、③そして、それはイエス・キリストを信じる者に与えられるということです。たとえ肉体が滅んでも、決して滅びない「永遠のいのち」がある。そして、イエス・キリストによって与えられるその「永遠のいのち」こそ、単に「死なない」ということを超えて、本当の意味で「生きる」ために、神によって「生かされる」ために不可欠なものだと、聖書は教えます。

 人間は、自力ではなく、他者の愛を受けて咲くおだまきのような存在だと言うことができるでしょう。人間は、偶然に生まれ、偶然に死んでいく存在ではないのです。聖書は、人は神によって造られたこと、そして、神に愛され、神に守られ、神に「生かされている」存在であることを教えています。ここにこそ、本当の意味での人の価値があるのです。どれだけ大きな花を咲かせたか、他者よりどれだけきれいであったか、どれだけ長く咲いていたか、ということが人間の価値ではありません。ひとりひとりを特別な存在として造り、愛し、守ってくださる神に愛されている。そして、神が一人一人を特別な存在として喜んでいて下さる。そこにこそ、一人一人に与えられている特別な価値、本当の価値があるのです。そして、この神を信じる者は、「死んでも生きる」のです。
 私たちの肉体は必ず一度は朽ちていきます。地上における私たちの「いのち」は、永遠に咲き続ける花ではないのです。しかし、神に生かされていることを認め、その神を信じる者は、死んでも再び生きるのです。そして、その花は永遠に咲き続ける美しい花となることを、聖書は約束しています。

 「いのちより大切なもの」とは何でしょうか。あなたの人生が「苦しみ」ではなく「喜び」であるために、一度枯れて終わってしまう花ではなく、美しい永遠の花を再び咲かせるために、「大切なもの」に目を留めていただきたいと思います。

力をぬいて

PHAAQ013.JPG「力をぬいて」

何のために生きているのだろう
何を喜びとしたらよいのだろう
これからどうなるのだろう
その時 私の横にあなたが一枝の花を置いてくれた
力をぬいて重みのままに咲いている美しい花だった

星野富弘(「にせアカシア」,『鈴の鳴る道』p.66 )

 私たちは皆、程度の差こそあれど、何らかの心配事を抱えています。人間関係、仕事上の問題、貯蓄、子供の教育、子供の将来、老後の生活・・・。そして、時にその心配事が私たちの心を支配し、生活にまで深刻な影響をおよぼすことがあります。そんな心配事よりも大切なものがいくらでもあると分かってはいても、やはり心配事に心を奪われてしまうのです。

 星野さんは体の自由が全く奪われた状態になって、その後の人生に対する心配で心が支配されてしまった時期があったそうです。病院のベッドの上で、ただただ心配で、死ぬことばかり考えていたそうです。しかし、「私」の状態、「私」の将来、「私」の幸せばかりに目を向けていた彼が、その視線を少し変えてみると、「あなた」が置いてくれた一枝の花が目にとまったと言います。そしてその花には、心配事でがんじがらめになっている「私」とは対照的な、「力をぬいて」自然のままにそこにあることによる美しさがあったと言います。

 神によって造られた自然が持つ美しさは、「私」を何とかするために奔走する人間にはない落ち着き、美しさがあります。そしてその美しさは、私たち人間に大切なことを教えています。私たちも、この花のように「力をぬいて」自然に生きることができるならどんなに良いでしょうか。様々な問題の中にあっても、本当に信頼できるものに身を委ねて、「力をぬいて」生きることができるなら、私たちの生き方は大きく変わってくるでしょう。本来、神様によって「鳥よりも、はるかにすぐれたもの」として造られた私たち人間は、その創造者である神に身を委ねて、「力をぬいて」自然に生きることが許されていると聖書は言います。いや、そのような生き方こそ、人間の本来の生き方だと教えるのです。そして、神様を信頼し、その身を委ねて生きる者を神様は必ず豊かに養ってくださると約束しているのです。

 心配事が絶えない私たちの歩みにおいて、「力をぬいて」生きるために必要なことは何でしょうか。あなたは何に身を委ねて生きておられるでしょうか。


それでもう十分

PHAAQ013.JPG「それでもう十分」

誰がほめようと 誰がけなそうと どうでもよいのです
畑から帰ってきた母が でき上がった私の絵を見て
「へえっ」とひと声驚いてくれたら それでもう十分なのです

星野富弘(詩画集絵はがき1 「ぺんぺん草」)


『よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』
マタイの福音書25章21節


 私たちは、自分の能力や生き方がどのように評価されているかということを重視します。自分がどのように評価かされているのか、私たちはその評価によって時に喜び、時に悲しみます。評価そのものを否定しようとする人たちもいるようですが、実際には、私たちには常に何らかの評価基準がありますし、評価を全く排除して生きることは出来ないでしょう。 私たちの歩みは、評価と切り離すことが出来ないと言えます。その際、誰の評価を意識して生きるのかということが大切になります。

 首から下が動かなくなってしまった星野富弘さんにとって、ご自分が懸命に書いた絵がどのように評価されるかということは、決して小さな問題ではなかったはずです。しかし、星野さんは「畑から帰ってきた母が でき上がった私の絵を見て「へえっ」とひと声驚いてくれたら それでもう十分なのです」と言います。出来るだけ多くの人に自分の能力を認めて貰いたい、自分の絵が素晴らしいと言って貰いたいとは考えなかったようです。大切な人に少しでも喜んで貰えれば「それでもう十分」。星野さんの地に足のついたおおらかな性格は、誰の評価を意識しているかということと深い関わりがあったようです。

 上掲の聖書箇所には、私たちは誰の評価を意識すべきかということが教えられています。私たち人間は、神様に「よくやった。良い忠実なしもべだ」と評価していただけるように歩むべきだと聖書は教えています。もし私たちが周囲の人々の評価ばかり意識して歩むなら、私たちはおそらく疲れ切ってしまうでしょう。人が下す評価は必ずしもいつも正しいわけではありませんし、ある人にとっては評価されるべき事柄も別の人にとってはそうでないことがあるからです。しかし、首尾一貫した正しさと愛を持っておられる神様に「良い忠実なしもべ」として評価していただけるように努める歩みは、私たちの重荷とはなりません。むしろそれは、明確な目的意識を持った、喜びのある歩みとなります。なぜなら、神様は与えられた能力と状況に応じて忠実に生きる者を喜んでくださるからです。背伸びをしなくても、疲れた自分にむち打って走らなくても、忠実に生きる者を神様は正しく評価してくださるのです。

「それでもう十分」と言うことのできる人は幸いです。そしてそれは、誰の評価を意識して歩んでいるかということと深く関わっています。あなたは誰の評価を意識して歩んでおられるでしょうか。




わたしについて来なさい

PHAAQ013.JPG「わたしについて来なさい」



27 この後、イエスは出て行き、収税所にすわっているレビという取税人に目を留めて、  「わたしについて来なさい」と言われた。
28 するとレビは、何もかも捨て、立ち上がってイエスに従った。
29 そこでレビは、自分の家でイエスのために大ぶるまいをしたが、取税人たちや、ほかに 大ぜいの人たちが食卓に着いていた。
30 すると、パリサイ人やその派の律法学者たちが、イエスの弟子たちに向かって、つぶやいて 言った。「なぜ、あなたがたは、取税人や罪人どもといっしょに飲み食いするのです か。」
31 そこで、イエスは答えて言われた。「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。
32 わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招いて、悔い改めさせるために来たのです。」

ルカの福音書5章27-32節


「人は新しく生きることができる」。聖書は私たちにそのように教えています。古い自分が根本的に変革され、「新しく生きることができるようになる」と聖書は約束しているのです。それでは、もしそのような歩みが可能だとすれば、一体、どんな人が新しく生きることができるというのでしょうか。取税人レビとイエス様の出会いを通して、そのことが教えられています。

 取税人レビは様々な苦しみや悲しみ、葛藤を抱えた人物でした。ローマ帝国の税金取り立て人として同国人から税金を集めていた彼は、人々から蔑まれていました。経済的には裕福であったかもしれませんが、生きる目的や生きる喜びを持つことが出来ずに苦しんでいた人物。それが取税人レビでした。

 ある日、そんなレビにイエス様が「(しっかりと)目を留め」てくださいました(27節)。「人はうわべを見るが、神は心を見る」と聖書は言います。誰も目を留めようとしなかった取税人レビを、そして、その内側にあった深い悲しみや葛藤を、イエス様はしっかりと見つめてくださったのでした。

 「わたしについて来なさい」(27節)。レビを招いたイエス様の言葉は非常に簡潔なものでした。しかし、この短い言葉の背後には、人生の目的や喜びを見失って苦しみ悲しんでいたレビに対するイエス様の深い理解と思いやりがありました。彼が新しく生きることを願う深い愛が、この招きの言葉には込められていたのです。「何をすれば新しく生きることができるのか」と悩むレビに対して、「誰と共に歩めば新しく生きることができるのか」ということをイエス様は示されたと言えます。イエス様は「私と共に歩む者になりなさい」とレビを招かれたのでした。

 28節には、取税人レビがイエス様の招きに喜んで応えた姿が示されています。彼は、それまで自分を縛り付けていた様々な価値観や執着心を後にして、イエス様と共に歩むことを決心しました。生きる目的と喜びを見失ってうずくまっていたレビは、イエス・キリストとの出会いを通して、感謝と喜びに満ちて生きる者と変えられたのでした。

 生きる目的と喜びを見失い、悲しみや苦しみや空しさを嫌と言うほど味わってきたレビがイエス様と出会うことによって得た喜びの大きさが29節に表されています。それは、自分と同じように葛藤を抱えて苦しんでいる者たちをイエス様に引き合わせるという形で表されました。こんな自分でさえ新しく生きることができるようになった。喜びと希望に満ちた歩みを歩む者とされた。人を新しく生きる者としてくださるイエス様の素晴らしさを、レビは何とかして人と分かち合いたかったのです。

 しかし、当時の宗教指導者たちであったパリサイ人や律法学者たちはそのことを快く思いませんでした(30節)。彼らは、「罪人と交わればその人も罪人になる」と考えており、イエス様が罪人たちと喜んで交わりを持っておられたことを批判したのでした。しかし、イエス様は「罪人と交わることによってその罪人を聖める」ことを願い、彼らとこそ交わることを喜びとされたのです。

 結局、パリサイ人や律法学者たちはイエス様と共に歩むことを最後まで拒み続けました。彼らは、「医者を必要としない丈夫な者」として自分たちを認識し、自分の力だけで歩む道を選び取りました。自分の内側にある罪の解決や救いさえ、自力で何とか獲得できると考えたのです。しかし、周囲の人々から蔑まれ、自分自身ではどうしようもない苦しみや悲しみ、様々な葛藤を抱えていたレビたちは、「医者を必要とする病人」として自分たちを認識し、イエス様と共に歩む道を選び取りました。そして、イエス・キリストと共に新しい歩みを歩み始めたのでした。

 イエス・キリストは、「わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招いて、悔い改めさせるために来たのです」と言われました。あなたは「医者(イエス・キリスト)を必要としない丈夫な者(罪のない者)」でしょうか。それとも、「医者(イエス・キリスト)を必要とする病人(罪がある者)」でしょうか。もし、人生の根本的なところにおいて何かが本質的に変えられる必要があるとお思いでしたら、「何をすれば良いのか」ということばかりではなく「誰と共に歩めば良いのか」ということに目を向けていただきたいと思います。あなたの心にしっかりと目を留めておられる神様は、「わたしについて来なさい」と今も招いていてくださいます。

語り継げるべき喜び

PHAAQ013.JPG「語り継げるべき喜び」



わが神、わが神。
 どうして、私をお見捨てになったのですか。
・・・・・
 あなたは私に答えてくださいます。
私は、御名を私の兄弟たちに語り告げ、
 会衆の中で、あなたを賛美しましょう。

詩篇 22篇 1,21,22節



 テレビドラマや小説における物語では、主人公が何もかも順風満帆な人生を歩むということはほとんどありません。いやむしろ、様々な苦しみや悲しみを通らされ、そのことを通して深い喜びや感動を体験し、人として成長させられていきます。そして、そのような姿にこそ私たちは共感を覚え、慰めと励ましを得ることが出来るのだと思うのです。

 現実の私たちも、悲しみを知ることで喜びを知り、闇を知ることで光を知るようになる存在だと言えるのではないでしょうか。そして、そのようにして知らされた深い喜びは、自分の内にだけ留めておくことができず、「語り告げられるべき喜び」として人に伝えられていくのではないでしょうか。
 あなたには「語り告げるべき喜び」がありますか。今までの歩みの中で、悲しみが喜びに、闇が光に変えられたという経験があれば、それを思い起こしてみてください。あるいは、あなたが慰めと励ましを受けたドラマや小説があれば、それについて思い起こしてみてください。

語り告げられるべき喜び:

 上掲の聖書の御言葉は、深い苦難の中でダビデが叫び、祈ったものです。ダビデの喜びと生きる力は、神に愛され、神と共に歩むことにありました。しかし、ある時彼はその神との交わりを失ってしまいました。「わが神、わが神。どうして、わたしをお見捨てになったのですか」。そう叫ばざるを得ない苦しみがあり、そう嘆かざるを得ない悲しみがありました。 何よりも、自分を愛し、自分と共に歩んでくださるはずの神がどこにおられるのかが分からない。神が自分の祈りに耳を傾けていてくださるのかが分からない。それが彼にとっての苦しみでした。

 「どうして」と叫ばざるを得ないような苦しみや悲しみが時に私たちを襲います。それまで当然そこにあったはずの喜びや幸せが突如としてその姿を消すことがあるのです。私たちは、自分の歩みが常に安定したものであり、今手にしている幸せが失われることがないとどこかで思いつつ歩んでいるのではないでしょうか。しかし、連日の報道を見れば、私たちの幸せは簡単に奪い去られる可能性があることを思い知らされるのです。私たちは誰一人として、自分は苦しみや悲しみに遭うことがないとは言えないのではないかと思うのです。

 ダビデを何よりも苦しめたのは、神との交わりが失われたかのように思われたことでした。富や名誉ならばすたれます。健康ならば損なわれます。家族や友人ならば去っていきます。しかし、神だけは何があっても決して私を見捨てない。そう信じていたにもかかわらず、その神が共にいてくださらない。もはや神の愛を頂けなくなってしまった。そうとしか思えない現実にダビデは悩み苦しんでいたのです。そのように悩み苦しむダビデを人々はさげすみ、ののしり、彼の命を奪おうとしました。実際、ダビデはこの時、まさに死に飲み込まれる間際まで追い詰められていました。

 しかし、彼は絶体絶命の死の淵にあって次のように祈りました。「あなたは私に答えてくださいます(原文は完了形「答えてくださいました」)」。それまで失われていたかと思われていた神との交わりが回復されたのです。神は、ダビデを見捨てることなく、彼の叫びに答えて彼を救ってくださったのです。そして、神のこの救いを体験したダビデは、神との交わりの尊さに改めて気付かされました。どこかで当然のように見なしていた神との交わりが、本当に大切でありがたいものであることを改めて知らされ、彼はそれを以前よりもさらに深く喜ぶようになったのです。そして、「わたしはあなたを決して捨てない。わたしはあなたを愛している」と約束してくださった主が真実なお方であることを深く覚えさせられたのです。それ故に彼は次のように祈りました。
「私は、御名を私の兄弟たちに語り告げ、会衆の中で、あなたを賛美しましょう。」
神が自分を救ってくださったこと、神が自分を愛し続けていてくださること、神が自分と共にいてくださること。その喜びが「語り告げられるべき喜び」としてダビデの賛美となり、人々に語り告げるべき証しとなったのです。

 教会は、「語り告げるべき喜び」を持っています。そして、イエス・キリストを信じる全ての者たちは、神の愛とキリストによる救いを人々に語り継げることを願っています。それは、この救いの喜びが、あらゆる時代の、あらゆる国々の、あらゆる人々にとってのかけがえのない喜びであるということを信じているからです。

 あなたには、「語り継げるべき喜び」はあるでしょうか。


幸いな毎日の秘訣

PHAAQ013.JPG「幸いな毎日の秘訣」

私はいつも、私の前に主を置いた。
主が私の右におられるので、私はゆるぐことがない。
それゆえ、私の心は喜び、私のたましいは楽しんでいる。
私の身もまた安らかに住まおう。


詩篇 16篇 8,9節
Ice-Break:
Q.1 一日を幸せに生きるために、あなたは誰と何をしようと思いますか。
Q.2 一年を幸せに生きるために、あなたは誰と何をしようと思いますか。
Q.3 一生を幸せに生きるために、あなたは誰と何をしようと思いますか。

幸いな毎日の秘訣:

 幸いな毎日を送るために、あなたは誰とどのように生きることを願っておられるでしょうか。
「幸いな毎日の秘訣」と呼ぶことができるようなものを、あなたは持っておられるでしょうか。

 上掲の聖書の御言葉は、今から約3000年前にダビデという信仰者が告白したものです。 当時、このダビデは彼をねたんで殺そうとする先王サウルによって苦しめられており、大変危険な状態の中で逃亡生活を強いられていたものと考えられます。人の目から見るならば、当時の彼の歩みは苦難と悲しみの連続であり、とても「幸いな毎日」を送っているとは言えませんでした。神様を信じ、神様に信頼して歩む信仰者であっても、現実の苦難や悲しみとは無関係ではないことを聖書は教えています。

 私たちの歩みもまた、様々な困難や悲しみと無関係ではありません。時に国や社会の状況に振り回され、時に人の冷たい仕打ちや裏切りを体験し、時に自分の内側にある罪に自らの自由を奪われる。そのようにして「幸いな毎日」が音を立てて崩れることが確かにあると思うのです。そもそも、「幸い」の基準とは何でしょうか。もし様々な困難を体験しないことが「幸い」なのだとすれば、それは大変脆く危うい「幸い」でしかないと思うのです。そして、そのようにして状況に振り回されてしまう「幸い」は本当の意味での「幸い」ではないのではないかと思うのです。それでは、地位や名誉や財産、あるいは運と呼ばれるようなものに左右されることのない「幸いな毎日の秘訣」とは一体何なのでしょうか。

 「私の心は喜び、私のたましいは楽しんでいる」。死と隣り合わせの逃亡生活を送る中で、ダビデはこのように告白しました。いわれのない誹謗中傷と妬みと憎しみを受けながらも、彼の心には日々揺らぐことのない平安と喜びがありました。一体なぜでしょうか。その秘訣を彼はこのように説明しています。「私はいつも、私の前に主を置いた。主が私の右におられるので、私はゆるぐことがない」。神様としっかりと向き合い、神様の御言葉に耳を傾け、神様を信頼して神様と共に歩む。それこそがダビデの「幸いな毎日の秘訣」であったと言うことが出来ます。地位や名誉や財産を手に入れることよりも、主なる神様と共に歩むことを何よりの喜びとし、そのことだけを切に求める。それこそがダビデの生き方でした。そして、この生き方は移ろいゆくその時々の状況や人の思いや自分の感情に左右されることのない確かな生き方でした。なぜなら、それは全知全能にして永遠に変わることのない愛の神が共に歩んでいて下さる歩みであったからです。

 それまであったはずの「幸いな毎日」が音を立てて崩れていく。私はかつてそんな体験をしたことがあります。父も母も、家族の誰一人としてその崩壊を食い止めることができず、それまでの「幸いな毎日」はあっという間に「絶望の毎日」に飲み込まれてしまいました。社会的な地位や財産などといったものは全く役に立たず、全く光の見えない暗黒の中を怯えながら過ごすという毎日が数年間続きました。その時、地位や名誉や財産は本当の意味での「幸いな毎日」を保証するものではないということを思い知らされました。同時に、そのような絶望的な状況の中にあっても変わることのない「幸い」というものに、どこかで強く憧れるようになりました。それから数年後、私の母に聖書との出会いが与えられました。手短に言うならば、母はその聖書との出会いを通してまさに息を吹き返し、数年間失われていた笑顔と喜びと感謝を取り戻すようになりました。置かれていた困難な状況は信仰をもったことでさらに厳しいものとなりましたが、状況に左右されない圧倒的な平安と喜びが母の内側に確かに存在していたことは誰の目にも明らかでした。そして、神様を信じ、神様の御言葉に耳を傾けながら神様と共に歩む彼女の「幸いな毎日」はやがて、暗闇を光に、絶望を希望に、涙を喜びに変えるものとなったのです。神様と共に歩む「幸いな毎日」は、状況に左右されるどころか状況を全く変えてしまう力があるということを目の当たりにすることになりました。

 「真の幸い」。それは、あなたを愛し、あなたを守り、あなたと共に歩むことを願っておられる神様と共に生きることであると聖書は教えています。神様の語りかけである聖書の御言葉を読み、神様に祈り、神様の導きの中に生きる。神様と共に歩むそのような「幸いな毎日」は、地位や名誉や財産や運と呼ばれるようなものに左右されないどころか、現実の生活を希望と喜びと感謝に満たすものであると聖書は教えているのです。

 「幸いな毎日の秘訣」。それは、神様と共に歩むことです。あなたの上にも、神様からの豊かな祝福がありますように。 


本当の豊かさ

PHAAQ013.JPG「本当の豊かさ」 ルカの福音書12章13-21節



12:13 群衆の中のひとりが、「先生。私と遺産を分けるように私の兄弟に話してください」と言った。
12:14 すると彼に言われた。「いったいだれが、わたしをあなたがたの裁判官や調停者に任命したのですか。」
12:15 そして人々に言われた。「どんな貪欲にも注意して、よく警戒しなさい。なぜなら、いくら豊かな人でも、その人のいのちは財産にあるのではないからです。」
12:16 それから人々にたとえを話された。
 「ある金持ちの畑が豊作であった。
12:17 そこで彼は、心の中でこう言いながら考えた。『どうしよう。作物をたくわえておく場所がない。』
12:18 そして言った。『こうしよう。あの倉を取りこわして、もっと大きいのを建て、穀物や財産はみなそこにしまっておこう。
12:19 そして、自分のたましいにこう言おう。「たましいよ。これから先何年分もいっぱい物がためられた。さあ、安心して、食べて、飲んで、楽しめ。」』
12:20 しかし神は彼に言われた。『愚か者。おまえのたましいは、今夜おまえから取り去られる。そうしたら、おまえが用意した物は、いったいだれのものになるのか。』
12:21 自分のためにたくわえても、神の前に富まない者はこのとおりです。」

ルカの福音書12章13-21節


「豊かさ」とは何でしょうか。
 ある時,イエス様がひとつのたとえ話をなさいました。
 「ある金持ちの畑が豊作であった。そこで彼は、心の中でこう言いながら考えた。『どうしよう。(私の)作物をたくわえておく場所がない。』 そして言った。『こうしよう。(私の)あの倉を取りこわして、もっと大きいのを建て、(私の)穀物や財産はみなそこにしまっておこう。そして、自分の(私の)たましいにこう言おう。「たましいよ。これから先何年分もいっぱい物がためられた。さあ、安心して、食べて、飲んで、楽しめ。」』 しかし神は彼に言われた。『愚か者。おまえのたましいは、今夜おまえから取り去られる。そうしたら、おまえが用意した物は、いったいだれのものになるのか。』」 (ルカによる福音書12章16-20節)

 この金持ちは,「豊かさ」について2つの大きな思い違いをしていました。
 1つめの思い違いは、「お金さえあれば,物さえあれば,自分は豊かに生きていける」と考えていたことです。そして、この金持ちのように考えている人は決して少なくないでしょう。しかし,イエス様は言われます。
「どんな貪欲にも注意して、よく警戒しなさい。いくら豊かな人でも,その人のいのちは財産にあるのではないからです。」(ルカ12章15節)
 そうです。お金や物をどれほど持っていたとしても,それは「豊かに生きる」ことを意味していないのです。本当の豊かさとは、お金や物によって得られるものではありません。
2つめの思い違いは、彼が自分の所有物や自分の命がすべて「私のもの」だと思いこんでいたことにあります。自然界を支配し、人間に食物を与えてくださるのは神様です。この金持ちも、自分の力で豊作のすべてを勝ち取ったわけではないのです。ましてや、自分のたましい、命を自分で完全にコントロールすることなど、人間にはできないのです。
「あなたがたのうちのだれが、心配したからといって、自分のいのちを少しでも延ばすことができますか。」(ルカの福音書12章25節)
自分の所有物や健康や命がすべて「私のもの」だと思いこむとき、人は感謝の心を忘れ、隣人を競争相手として見るようになり、憐れみや共存の思いを失っていくのではないでしょうか。そして、多くの所有物を手にしていながらも、「(心の)貧しい人」となってしまうのではないでしょうか。

 それでは,何が本当の「豊かさ」なのでしょうか。どのような生き方が「豊かな生き方」なのでしょうか。イエス様はたとえ話の最後でこう言われました。
「自分のためにたくわえても,神の前に富まない者はこのとおり(愚か)です。」(ルカ12章21節)
 そうです。自分のためだけにお金や物を蓄えることを止め,神に感謝し、神の前に富む生き方をすること。それが本当の「豊かさ」,「豊かな生き方」なのです。なぜなら、人の必要を理解し、その必要を適切に満たし、真の満足を与えてくださるのは神様だからです。
「何を食べたらよいか、何を飲んだらよいか、と捜し求めることをやめ、気をもむことをやめなさい。これらはみな、この世の異邦人たちが切に求めているものです。しかし、あなたがたの父(神)は、それがあなたがたにも必要であることを知っておられます。何はともあれ、あなたがたは、神の国を求めなさい。そうすれば、これらの物は、それに加えて与えられます。」(ルカ12章29-31節)
そして、私たちに「豊かな生き方」を与え、私たちを豊かに生かしてくださる神様の前に富もうとする者は、貪欲ではなく感謝の心を、競争ではなく共存を、さげすみではなく憐れみの心を持つことができるようになるのです。私たちを愛し,私たちの必要の全てを与えてくださる神様を信頼し,必要な分で満足して感謝し,困った人に助けの手を差し伸べる,それが本当の「豊かさ」,「豊かな生き方」なのだと聖書は教えています。イエス様は私たちがそのように生きることを願っておられるのです。

 そうすると,「本当の豊かさ」とは,私たちからそんなに遠くにあるものではないのかもしれません。神様を信じ,感謝し,隣人と愛の関係に生きる。そんな「豊かな生き方」を,皆様も経験されますように。
 湘南のぞみキリスト教会では、毎月第3日曜日(今月は17日)の礼拝を「歓迎礼拝」としています。はじめて礼拝に出席される方にも分かりやすいメッセージが語られています。また、「歓迎礼拝」では皆様も知っておられる賛美歌を歌うようにしています。「本当の豊かな生き方」を教え、そのように生かしてくださる神様の御言葉に共に耳を傾けてみませんか。