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私がクリスチャンになった理由

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変わりたい

PHNFL004.JPG「変わりたい」 M.O.(中学2年生女子)


1994年8月26生まれ、中学2年の岡本真緒です。私の家の家族構成は父・母・私で、兄弟はいません。父は私が3歳の時、母は私が8歳のときに洗礼を受け、我が家はクリスチャンホームとなりました。そのため、私は小さいころから教会に来ていたり、小学5年から奥多摩のキャンプにも参加していました。

私は小学生のころから、お祈りの力は信じることができていました。友達とケンカをした時や、玉聖の入試の時も、ずっと祈っていて、そのお祈りが聞かれるという体験を何度も与えられていて本当に感謝だったと思います。
しかし私は小学校4年生ごろから、男子に対しては特に、暴力的で毒舌になっていました。それは悪いことだというのも分かっていましたが、教会でよく聞く「イエス様は人の罪を赦して、人を愛してくれる」ということに聞き慣れ、このキャラを変えたいだとか、本当に真剣に悔い改めたりすることはありませんでした。
そして、小学5年からキャンプに参加してはいましたが、肝心のメッセージの重要な内容はほとんど覚えていませんでした。また、小学生の頃の私は、「神様を信じたいけれど、本当に信じているのかが分からない」という状態でした。
けれども、私はキャンプが大好きでした。ギターやドラムを使ったカッコいい賛美や、優しいカウンセラー、面白い講師、楽しい友達、すべてが好きでした。だから毎年、夏にキャンプに行くことは欠かせませんでした。

いつもと同じように、中学1年の夏も、キャンプに参加しました。しかし、このキャンプの私自身は、今までと違いました。奥多摩に着くのが遅れたこともあって、部屋のメンバーになかなじめず、いつもうるさい私がとても大人しかったこと。小学生キャンプで行っていた奥多摩バイブルシャレーではなく奥多摩福音の家という環境に慣れていなかったこと。また、学校で、信仰を持っていないみんながメッセージをかったるそうに聞いている中で、自分だけちゃんと聞いて優等生ごっこをしていた癖がついていたこと。この3つのことがあったからなのか、今までのキャンプと違い、ちゃんとメッセージを聞いていました。また、グループで分かち合いをする時も、部屋のメンバーが真剣に語っているのを見て、最初は大人しいせいであまり話せませんでしたが、だんだんと同じように語るようになりました。…ということで、私は、このキャンプで、初めて真剣に神様と向き合った気がします。

とはいえ、大きく信仰の確信を得たわけでもなく、今までにない大きな発見があったわけでもなくキャンプは終わりました。しかし、その帰り道に、私は大切なことを思い知らされました。


帰りの電車の中で、同じ教会に通う男子と同じ部屋だった人が、私たちがいた車両に急に移動してきました。その人は、キャンプでは目立っている存在だったからなのか、私は一度話してみたいと思っていました。しかし、男子をバカにしたり暴力をふるっていた小学校の頃の癖なのか、私は、その人を侮辱するような言葉ばかりを言っていました。その人は私に腹が立ったらしく、元々いた車両に戻っていってしまいました。その瞬間、やっと私の中に悪いことをしていたという自覚が出てきました。メアドも住所も分からないし、来年まで会えないから、きっと謝れない、私はどうしたらいいか分からなくて家に着くまでにいろんなことを考えていました。そして、自分の罪について、きっと生れてはじめて、真剣に考えだしました。それで、最終的に思ったことは、「変わりたい」ということでした。そして、神様にも悔い改めました。でも、実はそのときは、「ちゃんと信仰を持ってる優しい人に変わった方が、きっと人からの評価も高くなる」とも思っていました。

私は、キャンプから帰ったあと、すぐに友達にメールを出しました。そして、1か月もたった頃は、キャンプではあまり話せなかった部屋のメンバーとも、すごく仲良くなっていました。…また、9月に、私の学校で学院祭があり、それにキャンプの友達も一人来てくれました。そこで、その友達に、「冬キャン行く?」と聞かれました。私は、それまで冬キャンがあることを知りませんでしたが、また友達にも会えるし、それに、例の男子に謝らなきゃいけないし、とにかくあるなら行きたい、と思い、行くことになりました。

12月、私は4か月ぶりに奥多摩福音の家に行きました。オープニングのメッセージから真剣に聞くことができ、前回と違ってすぐに部屋のメンバーとも仲良くなり…そして、例の男子にも会って、謝ることができて、本当に感謝でした。

あなたがたの会った試練はみな人の知らないものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを、耐えられないほどの試練に会わせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えてくださいます。(Ⅰコリント10:13)

少し大げさかもしれないけれど、私が冬キャンに行けて、例の男子と会って謝ることができたのは、ちゃんと神様が脱出の道を与えてくださったのだと思っています。

このキャンプでは、「Once again」という賛美を歌いました。「イエスがはらわれた犠牲、そのいのち捨ててまで私を救おうとされた、なんという愛、限りない愛。その十字架を今見上げます、憐れみに心うずきます、主がいるから生かされてる今。」私は、この賛美を歌うことによって、私は、神様の愛を実感することができたこと、本当に感謝でした。また、このキャンプでもう一つ、大きな発見がありました。それは、「洗礼は、イエスさまに、十字架にかけてごめんなさい。罪を赦してくれてありがとう。と思いっきり叫ぶことだ」ということです。冬キャンに行く前から、洗礼に向けての学びをすることは決まっていましたが、それはみのちゃんと聖哉くんのついでのようなもので、自分は、洗礼はどういう風になったら受けていいものなのかも分かっていないし、きっとまだまだずっと先のことだと思っていました。しかし、これを聞いたことで、「罪の実感を与えてくださり、脱出の道も備えて下さり、こんな私のために十字架にかかって下さり、こんな私さえ愛してくれたイエスさまに、思いっきりごめんなさい、ありがとうと叫びたい、だから、洗礼を受けたい」と思いました。
また、カウンセラーと一対一で話したときに、私は、人を傷つけて罪を実感したことから、洗礼の意味が分かったことまで、すべて話しました。カウンセラーは、「すごいSTORYが与えられたね!」と言ってくれました。私はそのとき、神様の計画のうちに今までの一つ一つの事がみこころの時に行われたことのすごさを実感し、気がついたら泣いていました。

神のなさることは、すべて時にかなって美しい。(伝道者の書3:11)

そして、カウンセラーが、「神様真緒のこと大好きだよ!」と言ってくれたのが、とても心に響いて、私は嬉しくてうれしくてそのあともしばらく泣いていました。

この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神の御心は何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。(ローマ12:2)

これは、冬キャンのテーマ聖句でしたが、講師の倉島新先生は、「自分で自分を変えることは無理、神様に、心の一新によって変えていただきなさい」ということを話していました。私も、洗礼を受け、神様によって、神様に従う者に変えられ続けたいと思い、最高のキャンプを主にあって終わることができました。

冬キャンに参加したことよって、私は、ますますキャンプが大好きになり、冬キャンの帰り道からすでに春キャンに行くことを考えていました。そして、「前進せよ!」というテーマの春キャンにも参加することができました。

私がこの春キャンで一番学んだことは、自分は本当に無力だということ、そんな私でも神様は用いようとして下さること、こんな私でも伝道できるということです。月が、太陽の光をもらわないと輝けないように、私も、神様に力をもらわないと何も役に立てません。春キャンに行く前は、キャンプ内での有名人になりたいとか、何かずば抜けた才能を見つけて目立ちたいとか、そんなくだらないこの世の肩書みたいなものをどこかで求めていました。でも、私には、今回も、1つの賛美が与えられました。それは、「君だからすばらしい」です。「人と自分を比べてばかり、今の自分に自信なくても、主は君をどんな時も、必要とされている。イエスを愛する仲間として、どんな時でも思い出そう、主の御名で励まし合える、友達がいることを。共に主の愛の分かち合うためにイエスは君を選ばれた。君にしか届けられない人々が待っている。共に主の愛を分かち合うためにイエスは君を愛された。主がいのちを注がれた、君だからすばらしい。」この賛美を歌って、こんな無力な私さえも神様のために、神様が用いて下さる、救いとクリスチャンホームと祈り合える友達が与えられていて、私はもう何も他の物は求める必要はないんだ、と思い、そして、こんな私を選んで愛して、必要として下さり、素晴らしいとまで神様が言ってくれることが本当にうれしかったです。

神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。(マタイ6:33)

そして、春キャンキャンプ最終日のシェアリングの時間、大学1年生になるキャンパーの人が、「毎日笑顔で過ごすことや、物事に一生懸命取り組むことでも、伝道はできる」と言っていたことがすごく印象に残っています。私も、中学2年生になり、新しい切り替えの時期なので、これからは、祈りつつ、そうやって伝道できる毎日の生活を送れたら、と思います。

しかし、今は、律法と別に、しかも律法と預言者によってあかしされて、神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、それはすべての信じる人に与えられ、何の差別もありません。すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる購いのゆえに、価なしに義と認められるのです。(ローマ3:21~24)

初めて参加したキャンプでは、「自分は本当に神様を信じているのかが分からない」という状態だった私が、今、神様のことを信じて洗礼を受けられることは、本当に感謝なことだと思います。こんな私さえキャンプに導かれて、いろんな人と出会えて、そして神様の愛を知れて本当に感謝しています。

それはそれとして、私たちはすでに達しているところを基準として、進むべきです。(ピリピ3:16)

洗礼を受けることはスタートダッシュ。私は、これからも神様の力で、祈り、神様を第一とし、福音を述べ伝え、愛を持って生きていく人に変えられ続けるように、前進したいです!!!

嘘の自分

PHNFL001.JPG「嘘の自分」 M.T.(中学3年生女子)

 私は、1993年5月12月7日、両親共にクリスチャンという恵まれた家庭に生まれました。家族構成は、父、母、兄、妹、そして私の5人家族です。たまに喧嘩するけど、普段は仲が良いです。

 私は、母のお腹の中にいる時から教会に来ていたらしく、初めて来た時の記憶はありません。でも、小さい頃から教会に来るということは、今も変わらず楽しみです。小さい頃は、数少ない友達に会いたくて来ていただけでしたが。

 自分で言うのもなんですが、私は社交的で明るい性格をしています。でも、小学6年生の夏までの私は、引っ込み思案で、寂しがりやで、いわゆる暗い子でした。それは、本当の自分を周囲に晒け出すのが恐かったからでした。笑われたり、ひかれたりするのが嫌でした。故に、作った自分で、嘘の自分で人と接していたのです。変わりたい、とは思っても、自分だけの世界から出るのが恐くて恐くて、ずっと本当の自分を出せずにいました。どうしたらいいのかも分からなかったし。

 教会に来ても、話を聞く時に心で受け止めることが出来ずにいました。右耳に入って、左耳に抜ける様な感じ。だんだん、教会に来るのがつまらなくなってしまいました。
 小学6年生の時、奥多摩バイブルシャレーで開かれたキャンプに参加しました。受験でストレスが溜まっていたし、これなら楽しく学べるかな、という考えからでした。

 キャンプのカウンセリングタイムの時に、カウンセラーに「罪って何だと思う?」と聞かれましたが、今まで「罪」を意識していなかったので、何と言えばいいのか分からず、「やっちゃいけないこと?」と答えました。すると、カウンセラーは微妙な顔をして、「間違いじゃないけど…」と言いました。
 その夜、私は自分の罪について、深く、真剣に考えました。そして、数え上げたらキリがない程、罪が沢山あることに気付きました。例えば、喧嘩すること、人の悪口を言うこと、嘘をつくこと。特に私は、嘘が多かったと思います。
 嘘で飾った自分は神様の前ではとても汚くて、卑怯。「私は汚い」という考えが生まれ、どんどんどんどん、自分が嫌になっていきました。
 キャンプでのメッセージもグサグサと刺さるものばかり。悲しくなって泣きたいような、逃げたいような気持ちになりました。でも、ちゃんと聞こう、聞かなくちゃ、と思い、久し振りにじっくりと聞きました。講師の先生は、こんな質問をします。「神様の目に、人、元い自分はどのように見えているのか」。私の答えは、「嘘をつく子供は嫌い」。先生はみんなに、聖書を開くように呼びかけました。開いた箇所は、イザヤ書43章4節でした。
「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。だからわたしは人をあなたの代わりにし、国民をあなたのいのちの代わりにするのだ」。
 これは衝撃でした。こんなにも罪で汚れた私を、神様は愛してくれている。しかも、大きなリスクを払ってでも救おうとしてくれている。純粋に嬉しくて、涙が出てきてしまい、チャペルの隅で泣いていました。

 その日から、私は変えられました。何の抵抗もなく、嘘の自分を捨てました。自分でもびっくりです。今の明るくてよく笑う、社交的な自分のイメージが強くなって、昔の自分が隠れてしまうぐらいの変化でした。イエス様の十字架は私のため。私のためにイエス様は死んで下さった。そして、神様は私を愛してくれている。そう思うと、心がすごく晴れて、笑顔になれるんです。
 今後は、教会のお手伝いをしていきたいと思っています。それから、イエス様の道から逸れないで、ずっとずっと神様から離れないように、祈りながら生きていきたいと思います。

これじゃダメだ

PHNLA230.JPG「これじゃダメだ」 S.O.(中学3年生男子)


僕は中学3年生です。家族構成は両親と弟2人、妹1人です。生まれた時からクリスチャンホームで、言葉もしゃべれない頃からずっと教会にいっていました。ただ親が教会に行くから必然的に僕もついていっていました。教会学校に出て、いろいろな人の話を聞いても桃太郎とかと同じ類のものだと感じていました。物心がついてくると多少理解ができてきました。

 教会であらゆることを聞いていく中で、自分に問いかける話をよく聞きました。「誰かに嘘をついたことのある人?」 僕は罪ということをあまり意識しないで生活していました。なので自分に悪いところは無いと信じていました。手を挙げないでじっと先生の目を見つめていました。 「みんなあるんだよ。」先生がそういっているのでとても疑問に思いました。どこがいけない!何が悪い!と、とても不満に思いました。それから僕は罪を意識しながら生活し始めました。するとどんどん罪が湧き出てきました。あの人は嫌い、あの人は苦手、など、自分で人を判断していました。親に平気で嘘をついていました。それがばれそうだからまた嘘で覆い、嘘を何連発もしていました。また、兄弟に暴力を奮ったりあれていました。

 僕は教会学校を通して多くのことを学びました。とくに中学科になって自分の心の中を探られるようなり、だんだん理解できるようになりました。小学科で「自分の罪はイェス様が自分の身代わりとなって死んでくださったのでもう赦された」ということを聞いていたのでもうどんな罪をおかしてもいいんだ、と思っていました。しかし、神様の一方的な愛のゆえにこの世にイェス様を贈ってくださり、罪のないイェス様が僕の罪だけのために死んでくださった、三日目によみがえり今も天で生きておられる、また、神様は僕からの対応を待っていてくださる、ということを知り、これじゃダメだ、と悔い改めるきっかけとなりました。今までの神様の喜ばれないことをやっていた自分がとても情けなく感じました。 そしてキャンプに行き、神様の愛をより一層深く知ることが出来ました。同年代のたくさんの人と同じ神様を讃えることがとても素晴らしく、喜ばしく感じました。そのキャンプでカウンセラーに教わった聖句がとても印象に残っています。

「『キリスト・イェスは、罪人を救うためにこの世に来られた』ということばは、まことであり、そのまま受けいれるに値するものです。私はその罪人のかしらです。」Ⅰテモテ1:15

この聖句は僕が少し曖昧に理解していた福音を自分の中に真実として決定づけるものでした。また、自分が罪人のかしらであることを教えてくれた聖句でもありました。ぼくはこれからいろいろ知識を身につけ、もっともっと神様に喜ばれることをし、たくさんの人に福音を伝えていきたいです。